与える」という言葉について、
哲学カフェのような場所で、いろいろ話しました。


しなやか自分軸オンラインアカデミー
リアル実践会です。


以前の私は「与える」という言葉がイヤでした。


人が物をくれると、
なかなか断れなかったからです。


あなたにいいと思って買ってきたのよ。
あなたが困っているだろうと思って。
楽させたくて頑張って準備したのよ。

というセリフ付きで興奮気味で渡されると、
尚のこと。

私が喜んでいる姿を見るために
この人が頑張っているのだから、
私が喜ぶフリをしとけば、それで済む。

そう思って、どんどん〝与えられる人〝に
なっていたと思います。


すると、相手は勢いずいて、
どんどん持ってきます。


当たり前です(^◇^;)


だけど、私はどんどん内心の反発を抱えて、
怒りを隠せなくなってきました。


で、意を決して「いらないです。


と言ってみても、
相手も反発します。



いかにも大変そうなので、
無理しないで下さい」と言ってみても、


無理しているわけじゃないから、とか、
あなたの為にやる必要があるからやっている、


と言われます。


その頃は、こうやって一度押し返されると
全く何も言い返せなくなる自分がいました。


私がいらないのに、なぜ必要と言うのか?
私がいらない、と言っているのに、
なぜ考えがかわらず、それどころか、
更に強く押したいのか?
純粋に分からないのだけど、


わたしにはどこか欠落している観点がある
のかもしれない、とか、
人として受け取らない方が大人気ない、というのは
正にこのことなんじゃないか、とか、



今から思えば、
他人軸に揺られるスカスカの自分が
確固たる強い意志に押し切られる、
という感じだったと思います。


ただ、強いというだけで、
何に基づく意志なのか、聞きもしなかったし、
聞けもしなかったし、
対話はほぼなかったと思います。
ただの押し合い、だけでした。


そして、もらった要らないものを前に、
なんで私が困らなければならないんだ?
という憤りがたまっていきました。



その後、軸対話を学びはじめ、


自分が何が好きで、何はイヤか
細かく自問自答する生活を送るようになりました。



すると、


これこれこういう理由で、欲しくないです。 
とか、
〇〇は好きだけど今日は体調が悪いので
欲しくないです。
とか、
△△は好きと言いましたが、味付けが辛いのは
嫌いなんです。 
とか、
これ、こういうの◇◇で、昔から好きです。

などと、
その場その場の具体的なリアルな自分を
言えるようになってきました。
  

つまり、私はスカスカではなくなってきたのです。


いや、スカスカだったのは、
私を明らかにしていなかった表面の私だけで、
本当は好き嫌い、は私の中にあったのですが。。


まあ、とにかく、 


そうすると、
漠然と自分自身を拒否されたという気持ちで
反発してきた人は、


具体的理由を告げられて、
「そうじゃないんだな」
と感じてくれるようになってきました。


それでも、
頑張って用意してくれた気持ちが強ければ
耳に入らないことだってあるので、
必ず反発がゼロになるわけでありません。


それでも、
私は押し返すエネルギーを使っているのではなく、
ただ自分を表現しているだけなので、


相手から残念な気持ちはなくならなくても、
更なる押し返そう、としてくる反発エネルギー
横方向、水平方向のエネルギーは
小さくなっていくのを感じました。


更に、そうやって、普段から
自分の好き嫌いを表現していると、
私は分かりやすい人間になっていき、


嬉しいことに、
好きなものをもらえる頻度も上がった
と思います。


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以前は、


自分の喜びのために、
相手に喜ぶ顔を強要するなんて、
与えるフリした搾取だ、
とさえ思っていたのですが、


今は

イヤなものを差し出されたら、
イヤと言い、
対話しなから、情報交換することが出来る


となったので、


「与えられる→押し付けられる」


の構図が破壊され、


「与える」と、いう言葉を聞いても
イヤな気持ちにならなくなりました(^^)



ただ、
今は、与える、という言葉の使われ方に、
不思議さ、というか、ちょっとした違和感が、
あります。


それについては、またに別の記事で(^.^)