土曜日午後の「イディッシュ文学の夕べ 番外編」でした | 再開  オネオネ日記

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ぐるっと一周回って、元に戻っての再会です。タイトルも変更しました。いろんなことがあって、中断していました。やっと落ち着いたのでまたはじめようとしています。

夕方、16時からのオンラインによる「イディッシュ文学の夕べ 番外篇」の配信を受けました。

 

ベルゲルソンの「生き証人」とデル・ニステルの「酔いどれ」という作品の朗読劇でした。この二人、同じ時代を生きた文学者ですが、文体が全く違います。

 

おそらく、はじめて接した方々には、ベルゲルソンはともかくデル・ニステルはなにがなんだか分からなかったと思います。

事前に、文字で読んでいたので、なんとなくわかりますが、デル・ニステルはやはり難解です。

 

そこで、今なぜイディッシュ文学なのかという点ですが、そのヒントはこの5月に発売された、『二匹のけだもの/なけなしの財産 他5篇』(幻戯書房)の解説にある、田中壮泰さんのデル・ニステルがベルゲルソンに送ったされる手紙の中の文章「文学とは神聖なものであること。文学とは厳粛なものであること……文学がすでに生業に成り果てていた当時のワルシャワの文学市場とは相容れないものでした」という文言にあると思います。

 

自己の存在をかけた試みであったということではないでしょうか。

 

そう読むと、西欧、東欧、ロシアで受けたユダヤ人の災禍という歴史的事情だけでないもっと普遍的なものを感じます。

現に、デル・ニステルの作品などは時代に閉じ込められない作品であることを示しています。カフカの作品がユダヤ文学とかかわらなくてもそれ自体として面白く読めることと共通しています。

 

個人的には、デル・ニステルの難解で批評家泣かせの初期の象徴主義的な作品を読んでみたいと期待しています。写実主義的作品では、その当時の時代事情が分からないと読み解けないのですが、象徴主義的な作品であれば、今日の情況に照らして読むことが出来るからです。