瞑想に関しての効果についてはよく語れるが、副作用については語られないようだ。いえ、それを副作用なんて言っていいのかすらわからないのだけれども、何かがある。オカルトチックになるし、妄想にちかくて、瞑想を踏み外しているのかもしれないのであるが、明晰な意識で感じる。
だれも語ったことはないし、語れば変な人と思われるかもしれないという恐怖が発言を押しとどめるのだが、真実を書きつけたい詩人・文学者としては正直に言ってみなければならない。
なんの根拠もないけれど。
突然襲ってくる、発作のようなたまらない孤独感、寂寥としたものが襲ってくることがある。時間としてはそう長くわなく、それはたまらないので振り払うと消える。
「ええーい、うっとうしい」と腕を振り払うように娑婆に戻ってくるのだ。
尾籠な話で申し訳ないが、たとえてみれば便秘で苦しんで、出したのに出ない、「神様、仏様助けてください」とねがうような、なんともたまらない苦しみというか辛さなのだ。
特別体調がわるいわけでもなく、ストレスがたまっているのでもない。鬱症状とも思えない。なぜなら明晰に襲われているとわかっているから。そして数分で消える。
悪魔がのりうつったのかと言い表してもいいようなものなのだ。
「くそったれ、今度現れたら正体を突き止めてやる」と捨て台詞でも吐きたい気分なのだ。
瞑想はあくまで、ウペッカでなければならないので、明晰な意識による観察だ。明晰な意識の果てにこんな変なものがあらわれてくるのだろうか?よくわからない。
ちなみに、この発作は瞑想時にではなく、いつ現れるか予測がつかない。ふと、出現するのだ。
以下は私の仮説なのだが、これは〈私〉(永井哲学であらわされる表記の私だとすると)の原生的疎外、的なのではないだろうか。
〈私〉が存在するというだけで、受ける疎外なのかもしれない。それが一つの観念というよりは、〈私〉の成立が観念より先に成立しているから、〈私〉の成立が世界を開闢させたのだから、観念ではありえない。いち生物個体としての私の疎外を原生的疎外と呼んだはずだった。しかし、〈私〉は身体的な条件にのみ縛られるものではなかったはずだ。説明がつかないが、何となくそんな気がする。
よくわからないだけれど、メモしておこう。