自由経済と共に急激に拡大したフェミニズムが、50年を経て、日本でも国家の破綻も招きかねないほどの奇態な変化を遂げた。先般、私はこの悪しき恐怖症を育てた「詭弁論法」についての自論を展開する旨のアナウンスをしたのだが、不本意ではあるが頓挫させる。私は、これまで自分から半径数キロの市井に向けて言論活動をしてきたが、もう言論ではこの恐怖症は克服させてやれないことに気付いた。彼らに必要なのは失敗という経験なのだ。
1970年代に本格的に輸入され始めた女性解放運動は、日本の経済力を強化する立派な要素となったのは確かだ。日本を活気付けたという自負と誉をまるで疑わなかったフェミニストたちは、それらを大量生産するために奪われる幸せを自ら手放した。1980年代には、丁寧に言葉を定義し直してみても、もはや説得は難しいほど女性の貞操は乱れ、人々から慎みがなくなっていた。幸福を貪る自由を咎めようとする者へ、牙を剥いて唸るのであった。
1990年代、納税者を増やしたいがための壮大なシステムに一人残らず誰もが埋もれた。共食い経済の自我に、人間が振り回されていた。悪魔ですら面白いほど自我を見失うのであった。それから20年、日本はほとんどなにも変わっていない。カオスを止められないままでいる。なぜだろうか。無頓着を気取るノンポリも、穏急進派も、実は「フェミニズムの毒にやられた保守思想」を後生大事に受け継いでいるからだ。
私はこういった理由で、拝金主義者や悪魔崇拝の類いはおそらく9割の人口を占めるであろうと推してきた。日本に混乱らしい混乱がなかったのは、この分厚いバカ共が共食いをして腹を満たしていたからであると。金の流れが悪いという噂はこの20年ほど消えていない。そして、おそらく消えない。真偽はともかく、そう言っておけば景気はひたすら上向くと大衆が望んでいるからだ。弱者正義論はかくして再び頭をもたげている。
論の通じない「獣」と、論を悟る「人」との決別の日が近い。獣と言論して大和民族の血が果てたなどという喜劇を後世に残したくない私は、これに賛成である。ジレンマはここまで妙なことを言わせるようになっている。ナチスに倣うわけにはいかないのだから、エピクロスや兼好に倣って、私は陰遁生活に徹したい。と思っている。ところが、そこへ訪ねてくるものがある。それがフェミニストなのだ。我々には勝ち目も逃げ目もないのだ。
1970年代に本格的に輸入され始めた女性解放運動は、日本の経済力を強化する立派な要素となったのは確かだ。日本を活気付けたという自負と誉をまるで疑わなかったフェミニストたちは、それらを大量生産するために奪われる幸せを自ら手放した。1980年代には、丁寧に言葉を定義し直してみても、もはや説得は難しいほど女性の貞操は乱れ、人々から慎みがなくなっていた。幸福を貪る自由を咎めようとする者へ、牙を剥いて唸るのであった。
1990年代、納税者を増やしたいがための壮大なシステムに一人残らず誰もが埋もれた。共食い経済の自我に、人間が振り回されていた。悪魔ですら面白いほど自我を見失うのであった。それから20年、日本はほとんどなにも変わっていない。カオスを止められないままでいる。なぜだろうか。無頓着を気取るノンポリも、穏急進派も、実は「フェミニズムの毒にやられた保守思想」を後生大事に受け継いでいるからだ。
私はこういった理由で、拝金主義者や悪魔崇拝の類いはおそらく9割の人口を占めるであろうと推してきた。日本に混乱らしい混乱がなかったのは、この分厚いバカ共が共食いをして腹を満たしていたからであると。金の流れが悪いという噂はこの20年ほど消えていない。そして、おそらく消えない。真偽はともかく、そう言っておけば景気はひたすら上向くと大衆が望んでいるからだ。弱者正義論はかくして再び頭をもたげている。
論の通じない「獣」と、論を悟る「人」との決別の日が近い。獣と言論して大和民族の血が果てたなどという喜劇を後世に残したくない私は、これに賛成である。ジレンマはここまで妙なことを言わせるようになっている。ナチスに倣うわけにはいかないのだから、エピクロスや兼好に倣って、私は陰遁生活に徹したい。と思っている。ところが、そこへ訪ねてくるものがある。それがフェミニストなのだ。我々には勝ち目も逃げ目もないのだ。