・その憐れみは慈愛ではない

心理や真理を探究していくと、親や兄弟、子供やパートナー
知人・友人、上司や部下との関係性を
見直す時期は必ずきます。


人間関係を見直していると

自分がその人生を選んだ、

そういう関係性を創り出した

「理由」に気づきだすと同時に、

相手に対しての見方が変わってくると思います。


大抵は、その役割をしてくれたことに
感謝の気持ちが湧いてきたり・・が多いのですが、

ときどき、

「そんな人生しか選べないなんて可哀想」って

相手を憐れむ方がいます。


特に、親や年上の兄・姉、パワハラの上司などに。

意外と年下の相手には思わないことが多い。



確かに、威圧的で頑固で家族も言う事聞くしかないような
親を持つ人は多いし、

そういう家庭に育っていると、

自分の兄弟も自分と同じように反抗してないっていう
家族は多いです。

だからと言って、その威圧的な性格や
みんなから相手にされない人生が本当に「可哀想」なのか?


違いますよね。


その人が自分で選んでるのだから
「可哀想」ではないし、
そこにはその人が学ぶことがいっぱい詰まってる。


問題は、あなたが「可哀想」と思う事にある。


不憫に思う、憐れに思う気持ちは

一見、慈愛のようにも聞こえますが、

それはあなたのプライドが

そう思わせてることもあるの。


こんなに嫌な思いをしてきた私は、

あの人にこんなことまでさせるくらい

色んな事を学びたい凄い魂だ!って


そう思いたいだけのプライド


これ、気づきを得て癒されたように見えるけど
何も癒されてないから。

自分を上に置くことで、

自分にあった出来事をいいものに置き換えようとしてるだけ。

もっと悪く言えば、

相手を見下してるのと同じなんです。



真に理解できた時って、自分の心は中庸なの。



だから「可哀想」なんて感じることもないし、

憐れみや不憫さも感じない。


菩薩や観音が人間に対して憐れみの感情を持つのは

全ての人が成仏できるよう見届けている

言葉では表せない大きな愛が大前提で、

蟻一匹を助けたような行いにでも愛を見つけ

それ以外の悪行に心を痛めてるから

「憐れみ」を感じているのであって


私達が言葉にする

「そんな人生しか選べないなんて可哀想」と思う憐れみとは

見ている目線が違うでしょう?



菩薩や観音の心で接するのは

まぁ正直、私もまだまだ出来ないし(汗)

その境地にたどり着くのは難しいことだけど

「中庸」の目線で相手を見ることは

気づきがあれば出来ることなんです。


自分の奥に隠されたプライド、

探してみてはどうですか?



ご覧いただきありがとうございます。

あなたのハートに愛と光と祝福を。


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