無条件の愛を唱えるときに、必ずと言っていいほど
「慈しみ」という言葉が出てきます。

この「慈しみ」と言う言葉は、動詞の「慈しむ」の連用形なのですが
辞書で引くと「慈愛・恵み」と書かれています。

では元の「慈しむ」はというと、「可愛がる・慈しむ」となるのですが
多分、感覚で解っていてもどういう状態を示すのか
あまり言葉では説明されていないと思います。

仏陀のことば「スッタニパータ」には慈しみついてこのように書かれています。

いかなる生物生類であっても、
怯えているものでも強剛なものでも、
悉(ことごと)く、長いものでも、大きいものでも、
中ぐらいのものでも、短いものでも、
微細なものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、
近くに住むものでもすでに生まれたものでも、
これから生まれようと欲するものでも、
一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

何びとも他人を欺(あざむ)いてはならない。
たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。
悩まそうとして怒りの想いをいだいて
互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、
そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、
無量の(慈しみの)意を起すべし。

また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。


人を欺いたり軽んじたり、互いに苦痛を与えることを望まないのが
慈しみの心づかいだよと仏陀はいいます。

全ての生命は平等なのだから、全世界に対してはかりしれない
慈しみの思いを心に持つのですよと諭しています。
恨みなどを抱くことなく、相手の幸福を祈るのですよということです。
またその姿がひとが目指すべき理想の姿、無条件の愛の姿です。
それを「慈愛」というのですね。


仏陀が話す慈しみの心があれば、この地球上に平和は訪れるのでしょうね。

Crystal breath

        ポットマリーゴルドの花言葉は「溢れる慈愛」
Crystal breath-だいや


「慈しみ」と同じように使われる言葉に、「慈悲」という言葉があります。
慈悲は元々はサンスクリット語の「マイトリー」で仏教用語です。
慈しみと同じ意味なのですが、日本では目下のものに憐れむ気持ちを表しますね。

「慈」は自分と同じように他者も慈しむことであり
「悲」は他者の悲しみを自分のことのように感じることを意味します。
どちらも相手を思う気持ちを示します。


日本語に訳された「慈悲」という言葉は、聖書にもたくさん出てきます。
同じ言葉なのに、仏教とキリスト教ではその言葉が示す世界観が違っています。
これは、宗教という枠組みの中に縛られた思想がそうさせているのでしょう。

「自分と同じように他者を慈しみ、他者の悲しみを自分の事のように感じる」というのは、
「あなた自身のようにあなたの隣人を愛せよ」というキリスト教の隣人愛に通じるものがあります。


他者を自分と同じように思いやることは簡単なようで早々出来る事ではありません。
ましてや国や人種を超えて慈悲の心を持つと言うのは、私達人間全てが学ぶべきことでしょう。
他者への思いに条件をつけていては、慈しみの心も慈悲の心も養われることはありませんね。
無条件の愛だけが、慈しみの心と慈悲の心を育ててくれるのです。




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