いつもサットサンで皆さんに「あなたは今のままでパーフェクトです!こちらから見ているとあなたはすでに覚醒しています!」言っています。「覚醒にはルールがなく、本やセミナーに出て技法や修行方法を教わっても意味がない」といつもお話していますが、Oshoの説法でドンピシャな説法がありましたのでシェアします!ちょっと長いですが最後までシッカリ読んでみて下さい。
質問者:私たちはみんな光明を得ていると、あなたがおっしゃっていると聞きました。もしそうだとしたら、なぜ私は何かが起こるのを待っているのでしょうか。古い習慣でしょうか?
Osho:ヴィート・ヴィギャナム、たんに聞いただけではなくて、ほんとうに理解しなければいけない。確かにあなたは私が「私たちはみんな光明を得ている」と言うのを聞いたが、それを信頼しなかった。あなたは自分だけを除外した。「たぶん、みんなはそうなのかもしれないが、まさかこの私が?」あなたにはとても受け容れられなかったので、こんな質問をした。
この質問はあなたの奥深くに混乱があることを示している。あなたは「もしそうだとしたら……」と言っているが、私はあなた方の光明が、なんらかの確率のようなものだと言ったのではない。もしかしたら光明を得ているかもしれないし、もしかしたら得ていないのかもしれない。そこに「もし」や「だが」はなかった。それは単純な言明だった。もう一度、繰り返そう。あなたは光明を得ているし、そうであるしかない。
だが、あなたの困難は理解できる。あなたは、おまえは無知だと言われて、それを受け容れてきた。あなたは、おまえは無価値だと言われて、それを受け容れてきた。あなたは、おまえは美しくないと言われて、それを受け容れてきた。「もし」や「だが」を言うことなく、質問さえせずに、自分がどれだけのことを受け容れてきたのかを見てみるといい。ほんの小さな子どもの頃から、あなたは正しい見方を与えられてこなかった。あなたはいつも、あっちへこっちへと押したり引っぱったりされてきた。「これになりなさい、あれになりなさい」と。
誰ひとり、もしも存在がゴータマ・ブッダだけを望んだのなら、存在はゴータマ・ブッダをフォードの工場でフォードの自動車が生産されるように、流れ作業で、なにもかもがまったく同じように、きわめて効率よく製造することもできたのだ!ということを考えた者はいなかった。流れ作業の工程からは、一日二十四時間、毎分一台の自動車がつくりだされてくる。
だが存在は誰もが、他のみんなと同じようになる状況をよいものだとは思わない。ゴータマ・ブッダの光明は、彼の光明であってしかるべきだ。あなたの光明は、あなたの光明であってしかるべきだ。比較から問題が生じてくる。あなたはこのように考えはじめた。「もし私が光明を得ているのなら、どうして私はゴータマ・ブッダやイエス・キリストやボーディ・ダルマのようでは ないのだろう。私はヴィート・ヴィギャナムであるにすぎない。誰も私を尊敬してくれない。私が歩き回っても、私のことに気づいてくれる人さえいない。こんなものが光明だろうか?きっとこれから、達成しなければいけないんだ。きっと、それはまだ起こっていないのだから、これから 起こらなければいけないんだ」
その考えが、これほどの一貫性を持って、じつに何千年にも渡って、世の中に広められてきた......光明は達成されるものなのだという。私はあなた方に言いたい、光明は達成ではない、それはあなたのまさに本性だ。もし、あなたがそれを見逃しているのだとしたら、理由はあなたがそれを達成していないからではない、理由はあなたが自分自身を除く、ほかのあらゆる場所でそれを探し回っているからだ。あらゆる寺院に行き、あらゆる聖典を読み、マスターの振りをしている。ありとあらゆる愚かな人たちを訪ねて回っている。
自分は光明を得ているのだと、いままさにこの瞬間に宣言してほしい。みんながあなたを崇拝するか?どうかは問題ではないし、そんな必要もない。どうしてみんながあなたを崇拝しなければいけないのか?あなたは光明に無用な条件を課している。これはあなただけの問題ではなく、多くの人にとっても問題だった。
仏教徒は、マハヴィーラが光明を得ていることを認めることができない。彼は裸で暮らしているが、ゴータマ・ブッダは裸で暮らしていないからだ。ゴータマ・ブッダには、美しい髪の毛があったがマハヴィーラは自分の髪を引き抜いた。このふたりの人が、どちらも光明を得ているはずがない。私たちは、よく考えもせずに、光明を得た人はみんな同じはずだという考えを受け容れてしまっている。これはまったくのナンセンスだ。存在では、多様性がその美しさだ。
私もまた、誰もが自分なりのやり方で光明を得て、自分なりのやり方で、その光明を表現してほしいと思う。そうでなかったら、世の中全体が退屈きわまりないものになってしまう。考えてみるといい.....イエスが弟子たちに言ったように.....「誰もが自分の十字架を運ばなければならない。」まわりを見まわして、誰もが自分の十字架を運んでいる光景を想像してみなさい……
彼らを磔にする者さえいない。その者たちも十字架を運んでいるからだ。なにもかもが、ばかげたお祭り騒ぎになってしまう。存在は二度と同じ人間をつくりださない。類似性はこの美しい宇宙のルールではなく、独自性がそのルールなのだ。そして独自性を受け容れる瞬間に、あなたはあるがままの他人へのこの上もない敬意をも受け容れる。もっと別の言い方をしてみよう。
自分自身を光明を得た存在として敬うようになった瞬間から、あなたは誰しもを「あるがままで光明を得た存在」として敬うほかはなくなってしまう。誰もが一定のカテゴリーに当てはまる必要はない。光明はカテゴリーではないから、いつも同じ食べ物を食べていなければならないわけではない。もしもそのような一定のルールがあったら、私はスパゲッティなんか食べるよりも光明を放棄していただろう。
どんな聖典も、スパゲッティは光明を得た人のなくてはならない特徴だと言っていないのはけっこうなことだ。私の言うことを理解したなら、私が言っていることを.......あなたはその平凡なままで、完璧に正しいのだと私は言っている。なにひとつあなたに付け加えなければならないものはない。そして、もしこの平凡さにくつろぐことができたら、このまさに平凡さが、あなたのくつろぎゆえに、輝かしいものになって、花開きはじめるだろう。
あなたの受容性が、あなたの自分に対する敬意が滋養になって、あなたの存在に春をもたらし、花々はその花びらを開きはじめるだろう。だが、あなたはけっして自分の我が家でくつろがない。あなたは他人の家をのぞき込んでいる。誰かはゴータマ・ブッダの家を、誰かは老子の家を、誰かはイエス・キリストの家を、誰かはモーゼの家を……これはじつに奇妙な状況であり、あなたはわき道にそれて、誰もがほかのどこかに、いてほしくない場所にいて、存在がいてほしいと思う場所にはいない。
私は即座にして究極の平凡さを教える。それは最も美しい体験だ。なぜなら、いまや欲望はなく、緊張はなく、探求はなく、問いかけはなく、行く場所はないからだ。あなたはすでに、自分がいたかった場所にいる。そしてあなたは「もしそうだとしたら、なぜ私はなにかが起こるのを 待っているのでしょうか」と尋ねている。
さて、私はこれに答えるべきだろうか。おそらくこれは、あなたの独自の光明ではないだろうか。ほんとうは光明を得ているのに、なおもなにかが起こるのを求めているということは。ちょっとクレージーだが、それがあなたの光明を壊してしまうわけではない。それに何人かクレージーな人びとも必要だ。彼らは存在に塩味をもたらす。クレージーな人たちがいない存在からは、なにかとても興味深いものが失われてしまう。
だが、あなたはそれさえも受け容れることができない。あなたはなおも続けてこう尋ねる、「古い習慣でしょうか?」たんに自分自身を慰めようとして、あなたは、ほんとうは光明を得ているのだが、たんに古い習慣ゆえにあっちこっちを探し回っている。だがあっちこっちを探し回るほどに、あなたはますます古い習慣を肥やすことになる。古い習慣を練習している。食べ物を静かに喜びに満ちて食べ、たたえられるいっぱいの至福とともに眠り、大工として、靴屋として、画家として、詩人として、ダンサーとして平凡な人生を送り、理想を抱くことなくありのままの自分にリラックスする……という姿を見るのは非常に難しい。だが、人間は理想がなくても死にはしないし、理想がなくても奴隷にされることはない。なるべき理想像がなかったとしても彼を非難することはできないし、彼に罪悪感を感じさせることはできない。それに一生をかけてなろうとしても、理想のとおりになった人はひとりもいない。
キリストになったキリスト教徒を見たことがあるだろうか。人類のほとんど半分がキリスト教徒で、二千年にも渡ってこれらの人びとはキリストになるという理想をかなえようと懸命の努力をしてきた。なぜ彼らは失敗しつづけるのか。それはキリスト教徒だけではない....ジャイナ教徒も、仏教徒も、イスラム教徒も、誰も成功してはいない。理由はあまりにも基本的なので逆らうことはできない。
自分自身であるか、無駄骨折りをするかどちらかだ。選択肢はこのふたつしかない。ゴータマ・ブッダの独自性を愛するのはいいが、けっして彼のまねをしてはいけない。彼自身、誰のまねもしなかったので、そのために彼は光明を得た。単純な事実が認識されてこなかったのは奇妙なことだ。マハヴィーラは誰のまねもしなかったのでそのために光明を得た。誰かのまねをして光明を得た人がいたら見せてほしいものだ。Osho - Om Mani Padme Hum
どうでしたか?まさに、この説法を見てOshoは覚醒に対して深い気づきがあることが解りますよね。あるがままの自分でいいのです。本やセミナーに行き仏陀やキリストが行ったと言われる技法等をしても意味がないことを感じることができましたか?
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