真理とはマインドが無くなった時に起きる! | 真実の結晶

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あなたはもともとパーフェクトだと言うことを♪

いつもサットサンで「覚醒とは全てを受け入れて、起こる出来事に対してジャッジせず無抵抗でいることです。立ち止まってください。」と言っています。ここで「マインドが意味ないこと。本物の聖者」についてOshoの素敵な説法がありましたのでシェアいたします。少し長いですが、とても素敵な内容ですので読んでみて下さい。

真理を求めることはない。ただ、意見を持つことをやめるがいい。あなた方にどうやって、真理を捜すことができよう。あなたが真実ではないのだ。そのあなたに、どうやって〈神性なるもの〉を捜しに行くことができる。どうやって、捜すのかね、何をするというのか。せいぜい、あなたのマインドがまやかしを演ずることになるだけだ。せいぜい、「真理」を投影することになるだけだ。

だが、真理はヒンドゥー教でもなければ、キリスト教でもない。真理はクリシュナでもなければ、キリストでもない。それらは形態、衣に過ぎない。そしてもし、未だにその衣が自分の所にやって来ているのだとすれば、それは、その人がキリスト教とか、ヒンドゥー教という自分の意見でいっぱいだということ、自分を投影しているということだ。

(ソウサン)は「真理を求めることはない」と、言う。あなたには捜せない。どうやって捜せる。あなたには用意ができていない。マインドがあるからだ。誰が捜すのか。探求とはすべてマインドのものだ。あらゆる探索はマインドからやって来る。意識は決して求めない、決して捜さない。意識はただあるだけだ。それは存在だ、欲望ではない。探索は欲望だ。あなたはこの世で富を、権力を、地位を捜し求め失敗した。今度は神を、真理を求めている。しかし自分は同じままだ。何ひとつ変わっていない。ただ言葉が変わっただけだ。以前は権力だったが、今は神だ。

しかし、あなたは同じ探求者のままだ。真理は捜せない。逆に、あらゆる探求がやんだ時、真理があなたの扉を叩く。探求者が、もういなくなった時、真理があなたの所にやって来る。あらゆる欲望が止まり、どこへ行こうという動機もなくなった時、突然、人は光に満たされている自分に気がつく。突然、自分こそがこれまで求めてきた、まさにその寺院であることを見い出だすのだ。突然、人は自分がクリシュナであること、自分がイエスであることを理解する。

どんな光景も来はしない。自分こそすべての源泉、自分こそが実在そのものだ。‘真理を求めることはない。ただ、意見を持つことをやめるがいい。意見を持ってはいけない……キリスト教、ヒンドゥー教、回教、ジャイナ教……意見を持ってはならない。経典を持ち運んではならない。そうでないと、知識の人にはなるかも知れないが、決して賢人になることはない。多くの知識と情報でいっぱいにはなるかも知れないが、すべては死んだ借り物でしかないだろう。

意見は真理ではない。そうでは あり得ない。意見はマインドから来るものだ。真理はマインドからは来ない。真理とはマインドが無くなった時に起きることだ。判断は既知だ。そして真理は未知だ。既知がやむ時、未知がやって来る。まわりに何ひとつ既知のものが無くなった時、未知なるものがそこにある。人は、マインドと一緒には、決して到達できない。それこそが、ただひとつ放棄しなければならないものだ……

マインド、 判断、キリスト教徒であること、ヒンドゥー教徒であること、ギータ、バイブル、コーランだけは。知識を持って行くことはできない。知識はマインドに属するもの、意識に属するものではないからだ。その違いを見なさい。私は、意識はまさに鏡のようなものだと、あなた方に言った。前に来たものが何でも、何の偏見もなく映し出される。鏡は、「この女性は美しい。私はこの人を映したい」とか、「あの女性は嫌だ。あの人は映さないことにしよう。あの人は醜い」とは言わない。いや、鏡に判断はない。鏡はただ映すだけだ。それが鏡の本性だ。

だが、一方には写真の感光板と言うのがあって、これもまた映す。しかし、それはたった一度しか映さない。その後は、その像に執着する。カメラの後ろに隠れている感光板も映すが、一度だけだ。マインドはまさに感光板に似ている。それは映してから、その映像を捨てきれない。そこで、死んだ映像を運ぶ。いつも死んだ映像を持ち運ぶことになるのだ。鏡は、映して、また空っぽになる。再び、受け入れる用意ができている。鏡は常に新鮮に受け入れる。決して執着しないからだ。鏡にはどんな判断もない。マインドにあるのは、判断、判断、判断ばかりだ。そして、この判断の厚い壁のために、人は決して真理に到達できない。

真理はある。それは理論ではなく、実在だ。それは経験されなければならない。それについて考えることはできない。それについて哲学的に思索することはできない。倫理を立てれば立てるほど、見逃すことになる。時には罪人が一瞥を得ることはあるだろうが、哲学博士だけは無理だ。

ああだ、こうだの状態に止まっていてはならない。そのような営みを心して避けなさい。あれとこれ、是と非の跡かたでもあれば、心は混乱の中に失われる。難しい。知識を捨てることまでは理解できる。だが、もっと深く、通常の知識よりももっと深い所には、善悪の良心がある。「分かった。私はもうキリスト教徒ではない、ヒンドゥー教徒ではない」と考えることはできる。だが道徳となると、善悪の判断となるとどうか。

道徳は、キリスト教やヒンドゥー教とは違うと、あなたは思っているのかね。道徳は、人道主義者だ。無神論者ですら道徳家だ。無神論者はどんな宗教にも所属しない。だが、彼もまた善悪に基づいて考える。そしてこれは、求道者が解決しなければならない最も深い問題のひとつだ。本当の求道者はあらゆる概念……善と悪…を落とさなければならない。

聞いた話だが、小さな船で何人かの人が旅をしていた。と、突然、 海が狂ったように荒れ始め、今にも船は転覆しそうになった。みんなひざまづいて祈り始めた。この船にはよく知られた聖者と、これまた人に知られた罪人が乗っていた。その罪人もひざまづいて言った。「主よ、我らを助け給え」すると、聖者がその罪人に近づいてきて言った。

「あまり大きな声を出さないように。もし主がお前のことに気がつかれ、お前もこの船に乗っていると知られたら、私たちの誰ひとり、助かる者はいなくなる。みんな溺れ死ぬことになる。 そんなに大きな声を出してはいけない」だが、人を罪人と思えるような聖者が聖者であり得るだろうか。もし、他人を罪人だと考えているのだとしたら、そんな聖者が本当に本物の聖者であり得るだろうか。その人は偉大な道徳家ではあるかも知れないが、善にこだわり、まだ他人に対する非難を抱えている。宗教的な人は、非難の心を持たない。彼はただ受け容れる。宗教的な人は、きわめて謙虚だ。その人がどうして「私は聖人だ。お前は罪人だ」と言うことなどできよう。宗教的な人は、ただ、善と悪のすべての枠組みを落とす。

(ソウサン)は言う。‘ああだ、こうだの状態に止まっていてはならない。そのような営みを心して避けなさい。あれとこれ、是と非の跡かたでもあれば、心は混乱の中に失われる。考えてみなさい、あなた方も経験で知っているはずだ。あまり善人でいることばかり考えたら、どうなるだろう。悪はそのまま残って、それを抑圧することになるだろう。

うわべは磨きあげられるだろうが、内面深くでは混乱している。うわべは聖者になっても、隠れた深みでは罪人になる。そして同じことが罪人にも起こる。うわべは罪人だ。だが内面深くでは、彼もまた聖者のようでありたい。彼もまた「これはよくない。これはやめよう」と考えている。彼もまた、自分が罪人でないことを示そうとする。両方とも分裂している。その違いはただ、何が表面にあり、何が隠されているかだけだ。

聖者は、罪について夢見続ける。聖者は、自分が抑圧したあらゆる悪事を夢に見続ける。奇妙な現象だが、聖者の夢の中を覗きこめば、常に罪人のように見えるだろう。そして罪人の夢を覗きこめば、常に聖者のように見えることになる。罪人は、いつも聖者になる夢を見る。そして聖者は常に罪人になる夢を見る。抑圧されたものが夢に現われ、無意識が夢で自らを顕すからだ。だが、分裂はそのままだ。そして分裂している限り、決して源まで落ちることはできない。

それはちょうどこんなふうだ。一本の樹があるとしよう。無数の枝を出した大きな樹で、枝はそれぞれに分かれている。その枝に執着したら、どうやって根元まで行くことなどできるだろう。根に向かえば向かうほど、枝は少なくなる。下へ行けば行くほど「多」は消え、分かれていない一本の幹に到達する。すべての枝がその中にあり、しかもそれ自体は分かれていない。あらゆるものはそこから出ている。「多」はその「一」から出ているのだが、その「一」は「一」のままなのだ。人は、その「一」まで落ちなければならない。それこそが根だ、源だ。「あらゆる相対性は、絶対の一から来るとはいえ、その一にも、囚われてはならない」これを理論にして、それに囚われ、誰か否定する者があると、それと闘い始めたりしてはいけない。
Osho - Neither This Nor That

どうでしたか!マインドでジャッジしている時は、真理は見つからないこと感じて頂けましたか?あなたは今もパーフェクトな存在で仏陀なのです!ぜひ、ジャッジをやめて全ての出来事に身を任せ、真理に気づいてください♪


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★★2014年の
サットサン開催のお知らせ★★


●5/11(日)にサットサンin横浜開催(かながわ県民サポートセンター306) 

限定30席!お早目のご予約を!まだ席あります
◎5/11当日の個人セッション状況 ①予約済②予約済③予約済④空⑤空 

○5/17(土)にサットサンin大阪開催(サムティフェイム新大阪) 
限定12席!お早目のご予約を!まだ席あります
◎5/17当日の個人セッション状況 
①予約済
②予約済③予約済
予約済
予約済
予約済

●6/1(日)にサットサンinさいたまを開催します(埼玉会館6A会議室) 

限定24席!お早目のご予約を!まだ席あります!
◎6/1当日の個人セッション状況 ①予約済 
予約済
 ③空 ④空 ⑤空 

○6/21(土)にサットサンin大阪開催(市民交流センターひがしよどがわ集会室202
) 
限定18席!お早目のご予約を!まだ席あります
◎6/21当日の個人セッション状況 ①空 ②空 ③空 ④空  ⑤空

●7/6(日)にサットサンinさいたまを開催します(埼玉会館6A会議室) 

限定24席!お早目のご予約を!まだ席あります!
◎7/6当日の個人セッション状況 
①予約済 
予約済
 ③空 ④空 ⑤空 

○7/19(土)にサットサンin大阪開催(ココプラザ講義室406) 
限定24席!お早目のご予約を!まだ席あります
◎7/19当日の個人セッション状況 ①空 ②空 ③空 ④空  ⑤空
 

●8/10(日)にサットサンinさいたまを開催します(埼玉会館6A会議室) 

限定24席!お早目のご予約を!まだ席あります!
◎8/10当日の個人セッション状況 ①予約済 予約済
 ③予約済 ④空 ⑤空 

●9/7(日)にサットサンin東京を開催します(滝野川会館403集会室) 

限定24席!お早目のご予約を!まだ席あります!
◎9/7当日の個人セッション状況 ①予約済 ②予約済
 ③空 ④空 ⑤空

●10/5(日)にサットサンin東京を開催します(滝野川会館301集会室) 

限定24席!お早目のご予約を!まだ席あります!
◎10/5当日の個人セッション状況 ①予約済 
②予約済
 ③空 ④空 ⑤空

●11/9(日)にサットサンin横浜開催(かながわ県民サポートセンター406) 

限定30席!お早目のご予約を!まだ席あります
◎11/9当日の個人セッション状況 ①予約済②予約済③空④空⑤空


 
5/5
現在


※ご注意:誠に申し訳ありませんが、1週間前までのサットサン及び個人セッションのキャンセルだけないように願います。 



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