サットサンなどで「覚醒後はどんな感覚なのですか?」と聞かれます。そんな時「全てにおいて自由であり、どんなことでも出来ます」とお答えしています。でも、これだけではよくわからないと思いますので、Oshoがとても解りやすい説法を見つけましたのでシェアします。
とある村に、 村中の者に疎(うと)まれるほどたいそう不信心な者がいた。村人たちはできる限り彼を諭(さと)そうとしたが、何の甲斐もなかった。それどころか、逆に彼は神がいないことを村人に諭そうとするのであった。村人たちは彼を疎んでこう言った。「サドゥーの中でも一番のサドゥーがお出ましになった。御名をエークナートといわれる。その方のもとに行ってみることだ。神聖なるものの存在をおまえに納得させられるのは、エークナートをおいて他にいない。」
無神論者は、エークナートのもとを訪れた。その頃、エークナートは村の寺院....シヴァ神の寺院に逗留していた。寺院に着くなり、男はまごついた。彼は困惑した。男は不信心でこそあったものの、エークナートのようなことはしなかった。エークナートは横たわって休んでいた....シヴァの像に足をかけて。男は無神論者なので、シヴァ神を信仰してはいなかった。それでも、見かねて彼はこう思った。
「こいつはかなりの変人だ。シヴァに足をかけて寝ている。なんと不敬な!おれは神は存在しないと口では言っているが、シヴァの像を蹴飛ばしてみろと言われれば、心は揺れ動き、やはり神はいるかもしれないと心細くなる。神はいるかも知れない!それに面倒なことに関わりたくない。しかし、なんだ!この男は!シヴァに足をかけて頓着もせず横になっている。」
男は声をかけた。「あの、何をなさっているのでしょう。自分は無神論者ではありますが、神とやらを探してあなたのもとへ参りました。馬鹿な村人たちに、あなたを訪問するように仕向けられたのです。それにしても、あなたは何をなさっているのですか?」エークナートは答えた。「いつ何時だろうと足を置くところには、神がおられる。足を休ませるところなら、どこであろうと足は神に安らぐ。神をおいて他に誰が、わたしたちを支えているのだ。そういうわけだ、こんなことは問題ではない。」エークナートの言葉は、矛盾しているようであったが、とても意義深かった。この男はあたかも実際に何かを見たという様子だった。神しか存在しないなら、足をどこに置くというのか。足を置くところはどこにでも神がいる。あらゆる状況において、足は神に安らいでいる。だから、どこが違う。シヴァ像に足を置いて休んでも、かまうことはない。
「なるほど....」 男は考えた。「このサドゥーには、底知れぬものがある。一緒にいて観察させてもらおう。彼の行うことが見てみたい。」エークナートは横になったままだった。朝になり、太陽が高く昇っていった。男は言った。「あの、サドゥーは早朝、ブラフマムラートゥ*の時間に起きると聞いています。(*通常、太陽が昇る約二時間前、瞑想・祈り・ワークなど自分にとって一番良いことを行う時間)しかし、あなたはまだ寝ておられる。」
エークナートは言った。「サドゥーが起きるとき、いつであれそのときこそがブラフマムラートゥだ。その他の時間がそうであるわけがない。サドゥーが、ブラフマムラートゥに起きるのではない。サドゥーが起きる時間がブラフマムラートゥだ。どうして、わしが生半可にやることがある?神は起きたいときに起き、眠りたいときに眠る。」これを理解しなさい。神聖なるものは、起きたいときに起きる。神聖なるものは、あなたの内にある。それが目覚めたくなければ、それを起こそうとするあなたは何者だろう。ただの道具であるという感覚、その完璧な明け渡し!ともかく、そのような人間の行いには一貫性はまるでない。
エークナートは起き上がった。そうして乞食しに出ていった。乞食から戻ると、彼はパンを作り始めた。数個のパンが焼き上がり、彼はそれについている灰をぽんぽん叩いて、はたき落とした。そこへ一匹の犬が現れ、パンをひとつくわえて逃げていった。男はその様子を座って見ていた。エークナートは犬を追った。それを見て男は思った。「ここが我慢の限界か。先ほどこの男は、神聖なるものは、いたるところにいると言っていた。だが、今は痩せ犬を追いかけ回している!」この顛末(てんまつ)を見てやろうと、彼はエークナートの後を追った。2マイルも走ったところで、エークナートは犬を捕まえた。彼はその手にバター壷を抱えていた。エークナートは犬の口をつかまえてこう言った。「馬鹿だな!バターを塗るまでは、パンをくわえて行っちゃいかんと、何度も言っているだろう。もう二度とこんなことをするでないぞ!おまえは神だ。だからバターなしのパンをおまえが口にするのはしのびないのだ。」エークナートは犬の口からパンを取り上げ、バター壷のバターを塗って犬に与えた。そうしてこう言った。「さあラーマ、どうぞお召し上がりください。」
サドゥーのふるまいは単純で、子供のようだ。サドゥーのふるまいは、いかなる精神修養上の規律からも起こらない。それは実直さゆえに生じる。規律づけられたものでも、教化されたものでもない。そのふるまいは自然で、毎瞬毎瞬新しい喜びがある。どういう行動をサドゥーが取るか、それは予期できない。Osho -
The Last Morning Star
※エークナート:1533‐99?インド西部,マハーラーシュトラの神秘家。熱烈なバクティ(献身)の念を歌い上げる宗教詩人として膨大な詩を作ったといわれる。
お読みになって、いかがだったでしょうか!「こうあるべき」と言うルールがないエークナートのような自由な行動こそが「覚醒者の無抵抗な姿」です。エークナートから見れば、シヴァの像が神の像という観念(知識)がないのです!そう、ただの足置く品物にしか見えなかったのです。ですから、覚醒に気づくポイントは全ての観念を超えてところにスタートラインがあるのです!あなたには見えますか♪
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