地名・町名(その1) | 安芸市の近現代史を記録したい!

安芸市の近現代史を記録したい!

高知県安芸市の歴史や文化に関する雑記帳です。
山間部の集落や学校,人物史,お店の移り変わりなど,忘れ去られそうなことを記録にとどめていきたいです。

前回の投稿(東京オリンピック当時の安芸市)で,「上町」という昔の地名について触れた。
今回は,もはや忘れられつつある昔の地名や町名を紹介しよう。
ご注意願いたいのは,以下に述べる地名・町名は,①行政が定めた公式な住所表記ではなく俗称だった可能性がある,②異なる時代の呼称が混在している可能性がある,③読み方が間違っている可能性があることだ。


1.横町(よこまち)
今の元町。山崎の魚屋さんから黒岩デパートに向けての南北の通り。

2.裏町(うらまち)
和食屋本店から西に入って,東八幡宮、安芸第一小学校、スマイル安芸の南側を通って商工会議所に突き当たるまでの道。本町通ができる以前はここが安芸のメインストリートだったようである(注1)。

3.上町(うわまち)
黒岩デパートから東,梶橋まで通り。

4.六軒町(ろっけんちょう)
梶橋から東,安芸橋までの通り。昔はあの辺りには家が6軒ぐらいしかなかったので六軒町だとか。

5.流れ町(ながれちょう)
ふる中の東にある四国電力の寮の辺り。昔,波がそこまで来て流されたので流れ町だとか。

6.船場(せんば)
森沢病院の南東。昔は安芸川の河口と伊尾木川の河口が1つに繋がっていて,そこに船が出入りしていたため。

7.酒屋敷(さかやしき)
スナックたんぽぽ(旧スナック北京)からドクターバウ動物病院(旧豚太郎)にかけての南北の細い通りか(および?)その周辺。昔,須藤家が経営する造り酒屋があったためと思われる(注2)。

8.日和山(ひよりやま)
酒屋敷の東側。ドクターバウ動物病院を東に行き詰めた辺りから南側か。現在では分かりにくいが,建物がなかった時代にはそこが砂丘のように盛り上がっていて,東側の山々や海や河口を眺めることで,その日の天候を占うことができたため。

9.御殿屋敷(ごてんやしき)
センタービルの西側辺り。

10.国産町(こくさんちょう? くにうみちょう?)
横町の東側。酒屋敷との間か。

11.岡田町(おかだちょう)
西田屋のすぐ西側を荒川のジュース屋さんのほうに下りていく通り。岡田八太(八太網の考案者)の一族が暮らしていた家の跡だとか。

12.長左衛門町(ちょうざえもんちょう)
眞慶寺の前。眞慶寺の開祖,須賀長左衛門一重に因む。

13.次郎左衛門町(じろうざえもんちょう)
天理教の教会の前辺りか。須藤家の先祖,須藤次郎左衛門に因む。

14.庄兵衛町(しょうべえちょう)
次郎左衛門町の西。

15.太郎左衛門町(たろうざえもんちょう)
庄兵衛町の西。

16. 五分一町(注3)(ごぶいちまち)
白川の寿司屋さんの辺りかその東ぐらいか。

※番外編
・三間道路(さんげんどうろ):この言い方を近頃めっきり聞かなくなった。かつては日常的に使っていたのにえーん。どこかというと本町通りよりも1本南側の通り。つまり安芸高校の北,ふる中の北を通って東に向かい,森沢病院の西側を南に下りたところまでの道。昔の感覚としては「道幅が三間もある! とても広い道路!」ということだろう。西澤邦輔(2003)の41頁に記述あり。

・ポッポ広場(ぽっぽひろば):ごめんなはり線安芸駅の場所。特に今のホームの辺り。ごめんなはり線は元々「阿佐線」として計画されていたものの工事は一向に進まず,安芸駅建設予定地は赤土を盛った状態で長年放置されていた。そこは子供の格好の遊び場となっていたし,現在,駅舎がある辺りにはゲートボール場も作られていた。


【それぞれの出典】(上記の番号に対応しています)
1:佐藤(1995)の42頁。および立仙(2003)の48頁,49頁,および久(2003)の53頁。加えて、安芸市史編纂委員会(1981)の176頁。
2:佐藤(1995)の23頁,42頁,49頁,118頁,126頁,144頁,231~233頁,および立仙(2003)の48頁,および久(2003)の53頁。
3:西澤弘順ほか(1984)の9頁,および佐藤(1995)の148頁,173頁,267頁,301頁,および,および西澤邦輔(2003)の41頁,および立仙(2003)の48頁,および久(2003)の53頁。
4:佐藤(2003)の23頁,および西澤邦輔(2003)の41頁。
5:文献や資料に記述されているのを見たことがない。筆者の記憶によるもの。ごく一部の人だけが用いた俗称か。
6:岡林(1999)の224頁,226頁,227頁,および信清(2003)の26頁,および西澤邦輔(2003)の40頁,41頁,および立仙(2003)の48頁。
7:西澤弘順ほか(1984)の29頁,および岡林(1999)の268頁,および西澤邦輔(2003)の41頁,および立仙(2003)の48頁。加えて、安芸市史編纂委員会(1981)の176頁には「東酒屋敷」の記述が、同じく181頁には酒屋敷とある。
8:西澤弘順ほか(1984)の9頁。
9:岡林(1999)の224頁,230頁,および立仙(2003)の48頁。
10:岡林(1999)の224頁。加えて、安芸市史編纂委員会(1981)の135頁には、「…現在御分一町国産方の字残れり」とある。
11:岡林(1999)の224頁。しかし佐藤(1995)の24頁にはその辺りが「仲の町(なかのちょう)」であったような記述がある。この「なかのちょう」については,立仙(2003)の48頁が「中ノ丁」と表記している。佐藤(1995)の9頁によれば,ここより1本東の通り、すなわち旧マルオカ文具と清水産業との間の道を南に入ったところが岡田町であるとする。これらから判断すると、現在の本町2丁目8番地の区画が岡田町であったと考えるのが妥当か。安芸市史編纂委員会(1981)の208~209頁にかけて、岡田町の由来について興味深い記述がある。本文に記したように、これが八太網の岡田八太に由来する旨のみならず、岡田八太と入河内の船岡神社の繋がりなど、一読の価値あり。
12:岡林(1999)の224頁,244~247頁。
13:岡林(1999)の224頁,247~248頁。
14:岡林(1999)の224頁。
15:岡林(1999)の224頁。
16:西澤弘順ほか(1984)の114頁,および岡林(1999)の224頁,および立仙(2003)の48頁。加えて、安芸市史編纂委員会(1981)の176頁にも「御分一町」の記述あり。

【注】
1.本町通りがメインストリートだったのではという推測は,佐藤(1995)の232頁に記述あり。また,この通りの思い出を語る記述として丸岡(2003)(43頁後半~44頁初め)がある。
2.この酒蔵は,現在のスナックたんぽぽの北側(ドクターバウ動物病院の南側)に平成27年8月頃まで残っていた。屋号は「升屋」で酒の銘柄は「松がゑ」であった(根岸(2015))。
3.岡林(1999)の224頁では「御分一役所」と,西澤弘順ほか(1984)の114頁では「御分一町」と表記されている。

【参考文献】
・安芸市史編纂委員会(1981)『安芸市史(資料篇)』,安芸市教育委員会。
・岡林幸郎(1999)『戦国武将安芸国虎:本町筋再発見 安芸市の人物』,安芸本町商店街振興組合。
・佐藤省三(1995)『昭和一けたのころ:「高知・安芸」古き良き時代の少年の思い出 安芸市』,MBC21。
・佐藤省三(2003)「安芸橋の今昔」,「睦」編集部(2003)『睦』(安芸市老人クラブ連合会機関誌),第59号,安芸市老人クラブ連合会,22-24頁。
・信清豊喜(2003)「安芸町の移り変わり」,「睦」編集部,前掲書,25-27頁。
・根岸敦生(2015)「高知 )弥太郎ゆかりの土蔵,姿を消す 地震で倒壊の危険」『朝日新聞DIDGITAL』,2015年8月18日付。
・丸岡和平(2003)「商店の今昔」,「睦」編集部,前掲書,43-45頁。
・西澤邦輔(2003)「船場のあたり」,「睦」編集部,前掲書,40-42頁。
・西澤弘順著・西沢弘順遺稿集刊行委員会編(1984)『あきない風土記』,文理閣。
・久兼太郎(2003)「大正末期の安芸町」,「睦」編集部,前掲書,52-54頁。
・立仙準一郎(2003)「子供の見た大正の安芸町」,「睦」編集部,前掲書,48-50頁。

※本稿で大いに参照した『睦』第59号の巻末には、昭和50年頃に作成されたとみられる明治40年~大正9年頃の安芸町の手描き地図が収録されている。当時の各戸の屋号や出来事も記されている極めて貴重な史料である。この手描き地図の中にも「横町」「上町」「六軒町」の記述を確かめることができる。