前々回、「意味を考える前に、まず感情を感じることが大切」と書いた。

 

そんなとき、たまたま届いたメルマガに

こんな言葉があった。

 

『人は長い間考え続けるうちに、

気づけば感情を置き去りにしてきた』

 

それを見たとき、

感情とどう向き合えばいいのか、

その本質に触れたような気がした。

 

 

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これまで私は、

モヤモヤやイライラを感じると

それを打ち消そうとしていた。

 

「こんなことでイライラするなんでよくない」

「きっと別の見方もあるはず」

 

そうやって、

感じる前に“考えて処理しよう”としていたのだと思う。

 

でもそれは

感情から目をそらし、

そのときの気持ちを押さえ込んでいただけだったのかもしれない。

 

感じきれなかった感情は、

形を変えて、また現れる。

 

ときには、体の不調として。

 

私の場合は、

肩の痛みや、体のかゆみとして現れていたのかもしれない。

 

そんなことを考えていたとき、

ふとした出来事があった。

 

駅のホームで、前から来た人にぶつかり、足を踏まれた。

相手はスマートフォンを見ていて、

私をちらっと見ただけで、

そのまま電車に乗り込んでいった。

 

一瞬、ムッとした。

 

けれどすぐに、

「お互いさまかもしれない」

「もう少し、距離をとれたかもしれない」

と考えている自分がいた。

 

そのとき、ふと立ち止まった。

 

これは、

感情を抑え込んでいるだけではないか、と。

 

そう思い直して、

心の中で正直な気持ちを言葉にしてみた。

 

「ちゃんと前を見てよ」

「一言あってもよかったのに」

 

すると、不思議と気持ちはすっと落ち着いた。

 

そのあと、ふっと力が抜けた。

 

 

 

 

あとに引く感じもなく、

ただ出来事として受け流せたように思う。

 

 

感情を否定せずに感じきることは、

それに振り回されることとは違うのだと、

少しわかった気がした。

 

 

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思考と感情、

そしてそれを見ている“私”。

 

前回書いた「私は在る」という感覚は、

こうした日常の中でも、

少しずつ実感として立ち上がってくるのかもしれない。

 

 

 

 

 

「私は在る」とは何だろう。

わかるようで、ずっとつかみきれなかった感覚。

 

思考や感情をただ見ている、

“もうひとりの私”なのか。

 

ある一冊の本を読み進める中で、

「私は在る」という言葉に触れたとき、

ふと、感覚的に何かが腑に落ちた。

 

「私が在ると意識して、はじめてそれは現実になる」

(「世界はどうしたってあなたの意のまま」より要旨)

 

その言葉に触れたとき、

ああ、そういうことか、と感じた。

 

それまでどこか抽象的に感じていた言葉が、

急に自分の内側と結びついたような感覚だった。

 

子どもの頃、私はよく二つのことを考えていた。

ひとつは「宇宙の果てはどうなっているのか」。

もうひとつは「私は誰なのか」という問い。

 

夜、ベッドの中で、

「今、私は私だよね。

でも死んだら、この“私”はどうなるの?」

 

そんなことを繰り返し考えていた。

 

けれど、考え続けると頭が痛くなって、

いつも途中でやめていた。

 

大人になってからは、そうした問いから離れていたけれど、

精神世界や心理学、哲学に触れる中で、

「魂のようなものはあるのかもしれない」と感じている。

 

少なくとも今の私は、

思考する私と、

それを見ている私がいるように感じる。

 

感情を丁寧に感じ、

少し離れたところからみているとき、

ふと気づく。

 

ただ在るだけの、静かな意識。

 

もしかすると、

それが「私は在る」ということなのかもしれない。

 

子どもの頃、あんなふうに繰り返し考えていたということは、

もしかすると私はすでに、

「私は在る」という感覚に触れていたのかもしれない。

 

そう思ったとき、

あの頃の疑問が、少しほどけた気がした。

 

そして今は、

その「見ている私」の感覚から、

感情との向き合い方も少しずつ変わってきている。

 

次回はそのことについて書いてみようと思う。

 

 最近、ふと気づいたことがあります。

私はいつの間にか、

物事に「意味」を求めるクセがついていた、

ということです。

 

 

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「物事にはすべて意味がある」

そんな言葉を、どこかで見聞きしたことがあります。

 

たしかに、意味を見出すことで、

自分を納得させ、

前を向くきっかけになることもあると思います。

 

でも一方で、

意味を探そうとすることが、

かえって自分の本音を遠ざけてしまうこともあるのではないか。

そんなふうに感じるようになりました。

 

最近読んだ「自然の法則」にも、

 

「頭の働き(思考)が優位になってしまって、

すぐそこにあるはずの自分の本音と離れてしまっている」

 

と書かれていました。

 

意味づけは、自分に都合のよい答えを探したり、

「何が悪かったのだろう」と

自分を責めたりして、

事実から離れてしまうこともあります。

 

けれど、感じることは、その瞬間に起きた事実そのものです。

 

そう思ったとき、

「まずは自分の心に素直になろう」

そんなふうに思うようになりました。

 

そんなことを感じていたとき、

思いがけない出来事がありました。

 

 

 

 

 

 

つい先日、職場の最寄り駅で、

矢作直樹先生をお見かけしたのです。

 

すれ違うほんの一瞬の出来事でしたが、

私は思わず後を追いかけていました。

 

「矢作先生」

 

タイミングを見てお声をかけると、

先生は少し驚いたように振り返りました。

 

私が本を読んでいることをお伝えすると、

やわらかく微笑んでくださいました。

 

勇気を出して握手をお願いすると、

とても自然に手を差し出してくださり、

そっと握手してくださいました。

 

その手は、ふわっとやわらかくて、

なんとも言えないやさしさがありました。

 

そのとき、ただただうれしくて、

「なんてラッキー」と、

それだけを感じていました。

 

以前の私なら、

きっとそこに意味を見出そうとしていたと思います。

 

けれどそのときは、

ただうれしかった。

それだけで、心が満たれていました。

 

「そう、これでいい」

 

うまく説明できないけれど、

意味を探すより、ただ喜びを味わうこと。

その感覚が大切なのだと感じられました。

 

 

 

 

そんな体験をしたあとで、

あらためて思いました。

 

意味を考えるのは、頭の働き。

それよりも、自分の心で感じたことを大切にするほうが、

ずっと自然なのかもしれません。

 

 

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感じるよりも先に、意味を考えていた私。

 

これからは、

そのときの気持ちを素直に感じていきたい。

 

ふとした瞬間に、

「あの出来事のおかげで、今があるんだな」

と腑に落ちるとき、

 

そのとき、

はじめて意味が見えてくるのかもしれません。

 

意味は、後から自然に見えてくるもの。

そんなふうに、

やっとわかった気がしています。