松坂商人は水銀から始まった? | オヤジのおもちゃ箱

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行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

 

丹生大師の次は

近くの水銀鉱の坑道跡を訪れました。

入り口の前は広場になっており、クルマでのアクセスも可能です。

しかしながら、だ~れも居ません。

 

 

入り口から数百メートルの地点に坑道の遺跡があります。

そもそもこの一帯は、かつて百数十カ所に及ぶ坑道があったらしい。

その歴史は古く、記録によれば奈良大仏の建立の際に

メッキに使用する水銀約2トンを献上しているそうです。

 

最初は草ボーボー状況かと思っていましたが

想像以上に整備されています。

訪れる人が少ないにも拘らず

地元のレガシーの為に手間を掛ける人々には脱帽です。

これが東京であれば宅地開発で、とうの昔に消滅していたのかも。

 

 

上の画像は採掘された水銀鉱石。

表面の赤い部分が水銀朱で

粉末状にして熱すると液体水銀になる。

鉱石が赤いので、坑道周辺は「赤谷」と呼ばれていました。

 

 

入り口から程なく水銀の精錬装置が現れます。

丹生の水銀はピークは室町時代あたりで

その後は組織的な発掘が行われていないそうです。

しかしチャレンジャーは居るもので

この装置は地元の方が開発し

昭和30年代には毎月約340㎏の水銀を生産していたといいます。

 

 

原理はパイプの中に水銀朱と石炭を混入し

右側の釜戸で薪を焚いてパイプを熱すれば

液体水銀を収集する事が出来たそうです。

 

しかし、公害問題で生産を中止。

ちょうど水俣病の問題が起き始めた頃ですね。

(昭和40年代か?)

 

 

精錬装置から更に奥に入ると坑道の跡が!

日本で唯一の水銀坑道の遺跡だとか。

他の地域にも存在していた可能性はありそうですが

公害問題による風評被害もあって

歴史的な検証が行われていないのでしょう。

 

 

坑道の内部はこんな(↑)感じです。

独特の色合いをしていますねぇ~

確かに「赤谷」と呼ばれるワケですわ。

 

 

ところで多気町の近くの射和(いざわ)という地域は

水銀を原料とした「伊勢白粉(おしろい)」の生産地でした。

伊勢神宮の御師(おし)が各地に赴く際

手土産に伊勢白粉を配っていたそうです。

やがて、お伊勢参りがブームとなり

松坂商人が繁栄を極め

その知名度を増して行ったのでしょう。

 

ちなみに三井財閥の始祖である三井高利は

母型が伊勢白粉の生産に携わった永井一族の出自らしい。

永井氏は伊勢の国司であった北畠氏の家臣だったとか。

 

 

坑道見学の後は近長谷寺に参拝しました。

細い山道をクルマで登った後

さらに徒歩で急坂を登る。

 

「こんなところに本当に寺があるのかいな?」と思い始めると

視界が開けて本堂が現れました。(↑)

そして内部には・・・・・・・・・・

 

 

えっ! なに?、これ!?叫び

 

高さが6.6メートルに及ぶ巨大な十一面観音。

あまりのデカさに笑っちゃいましたドクロ

 

実は三重県、十一面観音の数が全国ナンバーワンなのです。

 

伊勢神宮のような社格がダントツに高い神社が

どうして三重県にあるのか?

しかも伊勢神宮の下宮は中央構造線の真上?

 

分からない・・・・・


考えても仕方がないのでランチタイムです。