黒塚古墳 | オヤジのおもちゃ箱

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昨日訪れた、奈良県天理市の黒塚古墳。
奈良県の天理市や桜井市には、数多くの古墳が点在しています。
ただ、宮内庁が比定している陵墓が多いので
発掘調査は、数の割には進んでいないそうです。
黒塚古墳は、比定を免れた事もあり
過去に大掛かりな発掘調査が行われました。
現在は公園として整備され、周辺住民の憩いの場になっています。
 
上の画像は前方後円墳の墳丘(後円の部分)。
後円部は径が約72メートルの大きさで、陵墓の全長は130メートルといいますから
かなり大きな古墳ですよね。
作られたのは、3世紀前半から4世紀後半らしい。
 
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高さ11メートルの墳丘頂上の様子。
古墳が作られる場所は、殆ど“高台”なので
眼下に見晴らしの良い景色が広がります。
石室は竪穴式。
地表から約2メートルの部分に、木製の棺桶が安置されていましたが
古墳が作られた直後の地震で、石室の内壁が倒壊。
この事が盗掘から陵墓を守る事になり
沢山の副葬品が、当時のままの姿で発掘されたそうです。
 
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黒塚古墳資料館に、発掘直後の石室の様子が再現されていました。
この頃の古墳は、内壁の石が小さいのが特徴。
同時代の朝鮮半島や中国の古墳にも、そういう傾向があるそうです。
後に日本は、巨大な石で石室を形成するようになり、埋葬も竪穴から横穴へと変化します。
 
恐らく、邪馬台国の時代には“日本国”という概念は存在していなし
同時に、“日本人”という区分けも無かったのでしょうね。
大陸で権力を掌握できなかった人々が、日本に流れ着き
地元の和人(縄文人?)と交わる事で
今に繋がる“日本”を徐々に形成して行ったと考えるのが一番自然です。
そう考えると、邪馬台国は渡来人が作った国家という事になりそうですね。
 
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黒塚古墳の副葬品の中で注目されるのは
上の画像の三角縁神獣鏡。
なんと!33枚が発掘されました。
日本全国で約500枚発見されたといいますから
黒塚は相当な数ですよね。
恐らく埋葬者は、この地を治めた有力な豪族の関係者という事になりそうですね。
近くに、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳もある事から
邪馬台国畿内説の有力な根拠の一つとなっています。
(魏志倭人伝に、中国の皇帝が邪馬台国に、100枚の銅鏡を贈ったと記載されています。)
 
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それにしても、細かく文様が彫られていますよねぇ~
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)って、どうして“神様”と“野獣”なのかなぁ?
古墳を訪れると、何時も頭の中が「?」で一杯になってしまう。