奥多摩の水源に残る、先人達の功績。(後編) | オヤジのおもちゃ箱

オヤジのおもちゃ箱

行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

イメージ 1

クマに警戒しつつ、登り始めから2時間ほどで笠取山の稜線にたどり着きました。
この日は天気が思わしくなく、雨が降ったり止んだりでした。

写真上の奥が笠取山で、手前のモニュメントは分水嶺です。
この付近に降った雨水が富士川、多摩川、荒川のいずれかのルートを経て
太平洋に注ぎ込むという訳です。

東京の水源は多摩川水系でしたが、昭和40年代前半位から利根川からも水道水を
引くようになり、今では多摩川水系は東京の水道水の19%程度になっています。

これから、その多摩川の水源を目指します。

イメージ 2


イメージ 3



モノクロの写真は大正時代に、この近辺で水源調査を東京府が行ったときの様子です。
その下は、モノクロ写真と似通ったアングルで撮影した現在の笠取山周辺の様子です。

この2枚を比較するとお分かり頂けると思いますが、この山域を東京府が買い取った
際、焼畑や木材の乱伐で殆ど禿山状態でした。
山には自然のダムの機能は殆ど無く、土砂崩れが頻繁に起きていた事が想像できます。

笠取山の名称も、山頂近辺の風が強く、旅人が笠を強風で飛ばされるところから命名
されたとか・・・・・・
樹木が殆ど生えていない訳ですから無理もありませんよね。

東京府の所有になると大規模な植林事業が始まり、人手で(大正時代だから当然)
この標高2000メートル近辺まで大規模な「森の再生」が行われました。

つまり森を再生して水源に相応しい山域に変えて行ったという事です。
本当に気の遠くなるような作業ですね。
今はクルマを飛ばして日帰り登山が可能ですが、大正時代となると駐車場の作場平に来るだけでも
数日は掛かった筈です。
何年もの時間を掛けて再生された森が、首都圏としては珍しいほどの生態系を保っているのは
素晴らしい事だと思います。

先人達の功績には本当に頭が下がりますね。

ただ、この山が乱伐されていたのは、当時は蒔を燃料にしていたという理由も存在する訳で
石油が燃料として使用されるようになったのも森の保存に一役買っていると思います。
明治の時代より、今の日本の方が緑豊かなのは「石油のお陰」みたいなところ
確かにありますよね。

イメージ 4


上の写真は「水干」(みずひ)と言いまして、多摩川の水源です。
写真では分かり難いと思いますが、左側の岩が窪んだところから地下水が染み出ています。
これが源流となって、多摩川は太平洋まで約138キロの流れを形成しています。
ちょっとドラマチックでした。

折角なので力を振り絞り、笠取山の頂上への最後の急登にトライ!
山頂は目まぐるしく天気が変りまして、「晴れ時々雨」で、一時“雹”(ひょう)まで降りました。

山頂から豊かな森を望むと感無量でしたね。

イメージ 5


おしまい

前編の記事はこちらからhttp://blogs.yahoo.co.jp/ranpante37/30711002.html