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Punipuny HighJink Zephyrぷにぷに

ぷにぷに。お腹ぷにぷにでネッ友さんがつけたハンドルネーム。
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浦上一番崩れ

1790年 浦上村の庄屋が石仏寄進を村人に迫った際、多くの村人が拒否。
庄屋は寄進反対派の村人19名をキリシタンとして告発したが、証拠不十分・庄屋自身の不正行為が発覚。最終的に1795年に村人たちは放免され、円福寺の本寺である延命寺に詫び状を入れることで収拾される。

浦上二番崩れ

1839年 浦上キリシタンの指導者たちが密告により逮捕されたが、奉行所には事件の記録が残っておらず、全員が釈放された。長崎県三井楽町の益田義美氏の家譜によれば、曽祖父・益田土之助が当時長崎奉行所に勤務しており、取り調べの中でキリシタンへの疑念を抱かず「自分の友人である」と証言して60名以上を救ったという。 土之助はその後奉行所を辞め、助けられた信徒たちは長崎市内や五島の三井楽岳郷に移り住んだとされる。義美氏の家には、苗字のない50~60名の名前が書かれた紙が残っており、これが救われた浦上キリシタンの名簿と考えられる。 このことから、奉行所に記録が残らないのは、土之助が名簿を持ち出し、弾圧を実質的に止めたためと推定される。

 

浦上三番崩れ

1856年 浦上村の隠れキリシタンが「転び者」によって密告され、長崎奉行所が大規模な取り締まりを開始した。過去の浦上一番・二番崩れでは、証拠不足や別問題へのすり替えで大事には至らなかったが、三番崩れでは具体的な告発があったため、徹底的な弾圧が行われた。取り調べの結果、帳方・吉蔵を含む幹部の多くが獄死・拷問死し、浦上の隠れキリシタン組織は壊滅状態となった。
 長崎奉行は事件を「村人が無知ゆえに起こした異宗事件」として処理し、キリシタンの存在を公的に認めないために事件を矮小化した。しかし、事件記録『異宗一件』は現在も長崎県立長崎図書館に残されている。

 

 

長崎で大浦天主堂の建設開始
1862年~1864年 横浜・長崎・箱館が開港

信徒発見:長崎の大浦天主堂で多くの潜伏キリシタンが信仰を告白
1865年 キリスト教信徒イザベリナ杉本ゆりが大浦天主堂でプティジャン神父に告白

プティジャン神父・ローケーニュ神父による布教活動
1866年 浦上に秘密教会建設

1867年 浦上キリシタン結束して仏式葬儀拒否・自葬許可を奉行に申し出
1867年 長崎奉行、浦上にて信徒68名を捕縛・牢獄に入れる。

浦上四番崩れの始まり

--------- 以下乙女峠展示室の展示より

1867年(7月14日・慶応3年6月13日)の夜は豪雨であった。
明けて15日の早朝3時頃、長崎奉行所の公事方掛役人が本原郷字平野秘密教会聖マリア堂に踏み込んだ。
そして四番崩れが始まったのである。
「崩れ」とは検挙事件のことであり、四番崩れの前に一番崩れ(1790年)、二番崩れ(1842年)、三番崩れ(1856年)と三つの検挙事件があった。
その中で一番崩れと二番崩れにおいては犠牲者は出なかったが、三番崩れにおいては最高指導者の帳方(惣頭)吉蔵以下、多くの指導的人物が投獄され、非道な拷問を受けて、吉蔵などの卒死も出ている。

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信徒は一旦は改心し帰村。しかし改心取り消しを庄屋に申し出

1868年1月 明治維新
1868年4月 明治政府キリシタン禁制を告示

 

浦上四番崩れ:浦上信徒の大量逮捕・移送

浦上の信徒114名 萩・津和野・福山の三藩に流罪

1868年6月 萩66名 津和野28名 福山20名


浦上キリシタン全員約三千数百人捕縛。富山以西の全国20藩22か所に強制移送
1869年~1870年 十万石以上の諸藩に最終的に3394名の信徒が預けられる。

 

津和野藩は四万三千石の石見の小藩であったにもかかわらず、信仰堅固なものをはじめ153名配当される。ちなみに福山藩は11万石にもかかわらず96名。

 

--------- 以下乙女峠展示室の展示より

なぜ津和野藩にこのような負担を負わせたのか。
当時、藩侯亀井茲監は、説論して改宗さすべきであるという意見を奉答して、かなりの自信をもって思想によって善導すべきであると主張していた。また、その前少し前の官制改革では、亀井茲監自身が神祇事務局判事に任じられ、3月27日には亀井の推薦によって、同藩出身の大国隆正は内国事務局権判事に、福羽美静は神祇局権判事に登用されていた。亀井、大国、福羽らの力量に期待してキリシタンの中心人物をここに預けたのであったのか。あるいは「やれるなら、やって見よ」という、政府首脳の意地悪さからそうしたのであったのか。とにかく津和野では、仙右衛門、甚三郎らを説得によって改宗させることができず、もっともひどい拷問、三尺牢、氷責めなどで37名もの殉教者を出す結果となった。
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移送の詳細は、サイト乙女峠の証し人から知ることができます。

 

--------- 以下 引用

1,第一次流配(1868年)
 1868年(慶応4年)7月9日、浦上キリシタンの配流が最終的に確定、翌10日から着手されました。その結果、西役所へ出頭した高木仙右衞門に代表される、キリシタンの中心人物114人(全員男子)が、山口(萩)・津和野・福山の3藩に送られることになりました。
 11日に金沢藩の蒸気船で長崎を出帆しました。下関で萩行きの66人と、尾道で福山行きの20人と別れ、残った28人は尾道の天寧寺に14,5日とどめ置かれ、その後、津和野の役人に引き渡されてふたたび乗船して津和野藩の船屋敷のあったに廿日市(現広島県)に上陸した後、津和野街道を通って、中国山脈の生山峠を横断しました。途中2泊して、3日目に津和野に着き、城下から離れた光琳寺に収容されました。
 津和野への移送は、津和野藩の申し出によるものでありました。明治新政府の成立早々、藩主亀井茲監と福羽美静の主従が、そろって神祇行政の先頭にたった津和野藩では、神道を振興することでキリシタンの早急な教諭にあたろうとし、それがキリシタンの受け入れ声明につながったのです。

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尾道市天寧寺付近の写真

2019年01月尾道 初めての鉄道旅にて撮影

 

津和野藩御船屋敷跡の碑 廿日市市

2021年09月撮影

 

今は廃寺となった光林寺跡と思われる場所の倒れた標識

 

 

 

 

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