最近ずっと過去の清算をさせられている私ですが、やっと軌道に戻り始めました。

私と似たような状況にある人が「自分だけじゃないんだ」「そんなもんなんだな」と思えたり、自他への理解が深まることを期待して、私の状況を書いておきたいと思います。

 

今回は、結論からお伝えします。

 

私達が苦しみを覚える時本来の自分が苦しんでいる時

です。

 

本来の自分の生き方が出来ていない時に、そのメッセージとして様々な不調・不快感が現れるというのは、何度もお伝えしている通りです。

※前回分投稿参照:▶︎メッセージに気付けるか

 

今回お話したいのは、中でも、ドアマット型(doormat)の人達についてです。

ドアマットのことを玄関マットとも呼びますね。そう、玄関先などの泥落とし用に置いてあるような、とにかく人々に踏まれまくる役目の、あれのことです。

 

英語では、ドアマットの名称とは別の意味に、このような意味があります。

「〈比喩的〉人に踏みつけられてもじっと耐えている人、邪険に[人に利用]されても黙っている人、いつもやられっぱなしの人」英辞郎

 

皆が皆ではないかもしれませんが、私達は道徳心社会性に富むと、その副産物として、気付かぬ間に自分よりも他者を優先する習慣が付くものです。

そんな習慣で他者に接していると、他者の方は自分が優先される立場にあるという勘違いをします。一方、他者を優先し続ける人は、そんな他者に良いようにされるドアマット型人間と化してしまいます。具体的には、パシリやいじめられっこから、人の世話役、話の聞き役、付き合い役、引き立て役、等々、多岐にわたります。

 

特に、相手を敬うために自分がへりくだった言い方をする謙譲語が日常会話でさえある日本の文化では、気遣い遠慮謙遜、はたまた付き合いといった他者の優先を含むことが文化として存在し、それらが本音と建前の下、美徳として認識されています。

その上、自己犠牲忍耐もまた美徳であるというのが暗黙の了解とされている世の中ですから、知らぬ間に自分を押し込め、自分より他者を優先する習慣を持つのも、ごく自然な話です。

 

一言で言えば、「よい子」はドアマット型によく陥ると言えます。

日本文化の美徳教育されるがままに受け入れる「よい子」は、人を喜ばせることを善しと設定します。その際、自分を卑下することや、自己否定・自己犠牲・忍耐を伴っても良いということを誤って前提としてしまうことも少なくありません。

もっと極端なケースでは、「自分のことを悪く言えば、他者を尊敬することになる」という誤った解釈をする人もいるわけです。

 

しかし、その挙げ句に、自分のペース自分が何を求めているかすらわからない麻痺状態に陥る悲惨なケースが出て来ます。自分を無視して、他者のことばかり考えていたら、自分のことをふと考えた時に、わからなくなってしまうのです。

何を隠そう、私自身、人に合わせたり、人のペースに任せるような受け身に構える状況が続くと、もはや目的を見失い、気力さえも失せてしまうことがよくあります。

実は私もこう見えて、ドアマット型人間なのです。

 

せっかくですので、私の特徴である昼夜逆転のケースを使って説明していきます。

 

私は所謂夜行性です。夜更かしをします。よく実家の家族や主人、その他周辺の人達から、私の昼夜逆転の生活についてツッコミが入ります。

私の実家の家族に言わせれば私は怠惰であり、主人に言わせれば私は遊んでおり、一部の周囲の人達に言わせれば私は家事を真面目にする気がない、と映るようです。

 

私としてはこういった言葉を聞くと、誤解をされているような悲しみ怒りを覚えます。

しかし!こういった反発反抗の気持ちを抱く時は、自分を守ろうとしているサインですので、その理由を探って行きましょう。

 

そもそも、私は何故夜更かしをするのでしょうか。

私も馬鹿ではありませんし、寧ろ健康や心身のメカニズムへの理解は深い方です。昼夜逆転の生活は全てにおいて悪循環なのに、それでも、続けてしまいます。

何故でしょうか。

 

色々な側面はあるのですが、今回ご紹介したい理由はズバリ、

自分の時間が欲しいから」です。

 

「ヨーコは別に仕事も自営業でマイペースだし、子供もまだいないのに、自分の時間が欲しいなんて何甘えたこと言ってんだ!」と怒られそうですが、私は毎日、自分の時間を過ごしているようで、実は自分の時間を過ごしていない感覚なのです。

 

それはどういう意味かと言うと、常に

相手や周りのことを気遣い過ぎる・意識し過ぎる

相手や周りのペースに合わせ過ぎる

相手や周りを優先してしまう

 

それはつまり、常に

自分への気遣いや意識が足りない

自分のペースを無視しがち

自分を後回しにしてしまう

 

と言えます。お母さん達にはこういうタイプが多いのではないでしょうか。

 

私の場合は皆さんのイメージ通り、思想や道義においては自己主張が強い方です。

ですが、日々の生活はまるで違います。

 

実家で過ごしていた時は、子供の頃から、団らんで話をするのも、お風呂や洗面所の使用でも、末っ子の私は、何でも最後でした。

大学生の時は関西に出ていましたが、卒業後に実家に戻ってからはめかしこむ年齢になっていたのもあり、尚更「お前は時間がかかるから、ここを使うのは後にして」と後回しにされる立場でした。

好きなことをするためにとは言え、正社員ではなくアルバイトや派遣三昧だった私は、その自分の社会的地位などをどこかで卑下していましたので、後回しという自分の立場に納得してしまっていました。

 

後回しにされることに納得し、それが当たり前になると、寧ろ急ぐ理由も出て来なくなります。その他、時間の想定も、途中で急に家族が割り込んで来たりするので、計画がズレることも当然となり、その結果遅刻魔となる自分を情けなく思いつつも、どうしようもないと受け入れてしまう習慣さえ確立していました。

どうせ後回しにされるのですから、自分のために戦う気力も失せるわけです。

寧ろ、時間にルーズで、とにかくのんびりという開き直りの態度が性格として確立されてしまうわけです。自分はどうせそういうキャラなんだと開き直れば、良くも悪くも自分を責めなくなりますからね。一種の自己防衛です。

 

私は、家族だけではなく、友人等周囲の人達といる時には、「自分の話は良いからとにかく人の話を聞こう」と考え、自分は基本的に黙って相手の話を引き出す役を進んで引き受けます。ひたすら他者の話を優先する習慣が付いているのです。自分がされて嬉しいことを他者にしようと思う、所謂よい子ちゃんなのです。

 

自分がされて嬉しいこととは、親身になったり、興味津々になったりしながら話を聞いてもらうことです。自分が求めていることがわかっているというのに、それを「相手や周囲に求めるのは申し訳ない」「自分を押し込めることが良いことだ」という思い込み勘違い習慣として染み付いていると言えるのです。

 

自分の話をせずに人の話を聞くことに集中すると、実際賢くはなりますし、信頼も増えますし、理性の面ではプラスばかりではあります。

しかし、その場ではベストな姿勢だと自分と折り合いを付けているつもりの、他者優先の態度が祟って、家に戻ると私はやたらとぐったりします。本来の自分を押し込め、自分を無視して相手ばかりに注目して、悪い時には相手の世界観や感覚に飲まれてしまって、疲れてしまうからです。

 

その結果、何が起きるのかと言うと、自分を取り戻そうという本能が働きます。

それで、自分の世界観や普段考えている思考とその回路、自分の興味のあるものなどに触れ始めます。気付けば、夜更かしをするわけです。

今の生活でも同じです。愛する主人のペースの中に常にいます。幸せだからこそ、そうするわけですが、結果として主人が寝付いた後に、カサカサ・・・と活動してしまうのです。

 

二十代半ばの若い頃、例えばこの動画なんかは、仕事から帰って来て、夜中の4時頃まで撮影や編集を行いました。そして7時には起きて、9時の出社に間に合うように行きました。

 

 

 

当時は何をやっているんだろうと思いながらも、今考えてみれば、それだけ一人暮らしのために仕事をして生計を立てつつ、仕事で自分の能力は出せないから帰って来てこういう動画を作っては本来の自分を表現し、バランスを取っていたのだと思います。

結婚し、そこまで物理的に好き勝手出来ない今は、ひたすらNetflixを観て、英語やアメリカの文化を学び取りつつ、ドラマの世界に没頭するという手法になっています。

結果、夜更かしをするのには変わりがありません。

 

夜更かしレベルではまだ可愛いものですが、これがもっと発展したら、病気を患うことになるのを私は知っています。
大きな所で言えば、既に私は今潰瘍性大腸炎を患っているのですが、結局病人になってしまえば、「私は病人なんだから、大事にされる権利がある」と主張出来るわけです。「あなたと違って、私は病人なんだから、大事にしてよ!」と言えるのです(苦笑)。日頃ドアマットで他者のことばかり優先していると、自己主張のための何かしらの理由が欲しくて病気になるという側面は人間にはあるのだと、私は自分の様々な経験を通して思っています。


本来、「私はこうして生きているのだから、大事にされる権利がある」はずが、「病人などハイレベルなケアが必要な状態でないと自分は大事にされるに値しない」と思い込んでしまう程、ドアマット人生を歩んでしまうことは悲痛なものです。

 

こうした面もあって、今社会で問題になっている引きこもり少子化も成立してしまうのだと思います。

恐らく今の生活水準の上がった、割と満たされた社会では、ドアマット型になる程、「苦労して社交するくらいだったら、自分一人でいた方が楽」、となってしまうのではと思うのです。

 

幸い、私の場合は結婚をしましたが、それでも自分の一人の時間が欲しいというのは拭えないままでいます。「結婚したら、生き方を変えろ」と言われそうですが、そもそもその発想は、正しいのでしょうか。頑張る所を間違っていないでしょうか。

 

というのも、諸悪の根源は、「常に本来の自分でいること」が叶っていない所にあるからです。

 

私達は、本来の自分からかけ離れた生活をしているから、それを取り戻す時間を要するわけです。

ならば、最初から本来の自分からかけ離れた生活をしなければ良いのです!(笑)。

 

今の時代は、先人や先輩方のお陰で戦後の復興や経済発展をしただけでなく、技術の発展も著しい世の中であり、自由度が益々高まっています。選択肢の増えた世の中ですから、本来の自分が喜ぶ生き方に常に意識を巡らせたいものです。

 

そこで、私がこれから皆さんと取り組みたい課題を最後に書いておきたいと思います。

 

まずは、発想の転換をしましょう。

 

自分の権利や思いを主張することは、自分勝手ではありません。

自己主張をすると、図々しい・みっともない・遠慮や我慢をすべきだと思ってしまうのは、あなたがこれまでそう思うように教育されて来たか、もしくはあなた自身がそれに基づいて他者に対してそう思った経験があるからに過ぎません。

 

自分の権利や思いを主張をするのは、あなたがあなたとして生まれ、あなたとして生きる目的のために行うのです。言い方は工夫をすべきでしょうが、主張をすること自体は、必要なことです。

というのも、周りの人達も、あなたが自分の立場や思いを表現しないことには、憶測の範囲でしかあなたを理解することが出来ないからです。無言も意思表示とみなされます。従って、自分より他者を優先している自分に気付き、自分の立場や思いを伝えられるコミュニケーション能力視点を起きましょう。

 

お互いに主張をすることで、主題にすることが定義されます。

一方的に言われるがまま、されるがままという段階を脱することが出来ます。

避けるべき主張の場合もありますが、形として出てくれば、基本的に主張と主張の折り合いを付けることが課題というステージに入ります。

つまり、これは少なくともドアマットのステージを脱するということです。そして、今度は進め方戦い方協力の仕方などが課題という段階になるというわけです。

そうすれば、新たな学びの始まりを迎えることが出来ます。

 

まだまだ書きたいのは山々ですが、今回はこの辺で。