見水の俳句紀行

旅人とわが名呼ばれん蝉しぐれ
コロナ禍で3年半の巣ごもり生活。行動制限がなくなったので、8月に2泊3日の九州旅行を計画したが、台風6号が直撃。大自然と郷土料理を満喫する旅はパーになった。
台風でどうするアフターコロナ旅
近場の北近畿の旅に変え、にっくき台風とは逆の時計回りで福知山・小浜・近江今津・賤ケ岳・長浜を経由して彦根に1泊し、帰りに近江八幡に立ち寄る旅にした。
このルートは、明智光秀、柴田勝家、浅井長政、豊臣秀吉、石田三成、井伊直政、織田信長らゆかりの地。大坂夏の陣まで駆け足の大河ドラマ「どうする家康」の復習・予習の歴史街道の旅になる。

8月7日の朝8時半、家族3人で神戸の自宅を出発し、舞鶴若狭道へ。春日インター以北のドライブは数年ぶりだ。

鬼饅頭よーく冷やして八つ切りに
「六人部で鬼まんじゅうでも買おうか」
六人部パーキングの売店で1個が10個分の特大饅頭を探したが、今回は見あたらず。
前を走っていた自衛隊のトラックが舞鶴東で降り、海水浴や釣りの思い出のある高浜あたりは山の中。11時前に小浜に着いた。道の駅・若狭おばまで昼食。

小浜からは一般道の若狭街道(鯖街道)を東へ。20キロ先の山深い場所に、秀吉の姻戚(浅野姉妹の婿同士)の縁で与力になり、後に五奉行として三成らと豊臣政権の実務を担うことになる小浜城主の浅野長政に整備させた宿場町「熊川宿」がある。東西1キロの町並みを保存しているので、道の駅の駐車場にクルマをとめ、付近を歩いた。


街道に沿って流れの早い澄んだ小川。家々の前には石段の洗い場がある。
洗い場に下りていきたい夏の川

夏衣とはいへ暑し番所詰め
通行人を見張る番所跡にはよくできた役人の人形が2人座っている。暑そう。

道の駅には食堂や売店の他、鯖街道のミュージアムも設けている。若狭の鯖を京まで運んだ鯖街道は、かつて信長が敦賀の金ヶ崎からひたすら逃げ返った道でもある。
今日は、鯖街道から別れ、東の琵琶湖岸に下る。左手に大きな箱館山。
今津から湖岸の道を北へ。水辺には松原や水泳場、別荘のような建物も。琵琶湖には全長200キロの湖岸一周のサイクリングコースがあり、この辺りなら自転車で走ってみたい。
湖の北端は山塊。トンネルで東へ抜けると長浜市。余呉湖・賤ケ岳は昨夜の「どうする家康」で見たばかり。木之本、浅井を南へ下り、姉川を越えて国友、長浜の市街地に。
「ここらで休憩しよか」
「ミスド探すわ」
赤信号で止まったのでカーナビで検索すると、街中にミスタードーナツの店がある。

長浜は40年近く前に職場の仲間と盆梅・鴨鍋のツアーで来たが、黒壁の町並みで人気が出た9年前の夏に家族で立ち寄った。今回はドーナツ店で休憩だけに。
小さい店で混んでいたが、スタッフのサービスは細かく行き届いている。
旅先の小さなカフェでアイス珈琲
午後3時を回ったので、伊吹山、関ケ原を横目に湖畔に向かい、長浜バイオ大学の大きなドームを見ながら、米原市の水辺の道路を走り、宿泊地の彦根へ。
彦根に家族で泊まるのは3度目。9年前の夏は彦根城が目の前の民間ホテル。翌日、彦根城に登り、ひこにゃんに出会った。国宝・彦根城は典雅な城だが、天守閣は小さい。

「どうする家康」では、これから赤備えの武田の遺臣たちを従えた井伊直政が活躍しそう。小牧・長久手の戦いで先鋒を務めた「井伊の赤鬼」直政は、家康の命で、関ヶ原で敗走する石田三成を追い、畿内から東国に通じる要衝の地である佐和山城に入る。
直政は戦傷が元で2年後に亡くなり、彦根城は、家督を継いだ直継が幼少であったため、幕府の命による天下普請で、彦根山に佐和山城の石垣を運び、浅野長政が築いて関ケ原で廃城となった大津城などを移築して造営された。
浅野長政は、関ケ原では東軍につき、浅野家は徳川の時代を生き延びる。別家の赤穂藩は事件で改易されたが、宗家の広島藩の当主は現在まで続いており、秀吉の命で作った「熊川宿」や「大津城→彦根城」も、400年以上生き永らえている。

6年前の晩秋はかんぽの宿。朝起きると箱館山と伊吹山が初冠雪。湖東三山を回った。
今回も元・かんぽの宿だが、施設を引き継いだ亀の井ホテル。何に出会えるのか?
部屋は1階の窓の広い角部屋で、カーテンを引くと琵琶湖が一望。白い大きな水鳥が気持ちよさそうに悠々と飛び、窓の近くには赤とんぼの群れ。
次から次赤蜻蛉来る琵琶湖畔
混まないうちに最上階の大浴場へ。夕食も早めに。少しのビールと近江牛、鮎、シジミ汁、近江米の会席で満腹になった。
部屋に戻ると、湖西の雲を真っ赤に染める夕陽に出会った。

夕焼雲鯖街道の鯖を焼く
翌朝は5時に朝風呂を浴び、朝食。コロナへの考慮か、個食で運ばれてきた。亀の井ホテルの見事な盛り付け。
ホテルが建っているのは、40年以上続く人気番組「鳥人間コンテスト」の会場の松原水泳場の南端。今年は1週間前の7月末に開催されており、8月30日にテレビ放映される。
舞い上がりやがて着水夏の湖

午前9時にホテルを出発。ペットボトルの麦茶を買いにスーパーに寄ろう。旅先の見知らぬスーパーに立ち寄るのはわが家の恒例の楽しみ。
「この辺のスーパーやったら、平和堂やで」
カーナビで探すと彦根銀座町にある。商店街の裏手の広い駐車場にたどり着き、店に入ってウロウロ。彦根名物の赤コンニャクも食品コーナーに普通に置かれている。ペットボトルの麦茶3本と地元製造のあられと丁稚羊羹を買って出た。
後で調べると、ここは大手スーパー平和堂の発祥の地。広い駐車場は滋賀県で最初に建てられたデパートの跡地だった。
彦根から近江八幡へはカーナビの誘導する国道8号線をひた走る。
古い家並みを通り過ぎると、町はずれには無粋な太陽光パネルの列。町を抜ければ美しい近江米の田んぼが広がる。

ソーラーがしれっと並ぶ炎天下
近江路は緑の稲田一色に
国道8号線の東側に旧中山道があり、初代・伊藤忠兵衛(1842~1903)の旧邸を記念館として残している。伊藤忠兵衛は近江商人の伝統の「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」の実践と家族的経営で、総合商社の伊藤忠と丸紅を築いた。
犬上川宇曽川愛知川夏盛り
鮎釣りの人を遠目に橋越える
湖東平野の緑豊かな川を越えてゆく。川の中に入って釣りをしている人もいる。
カーナビが右折の指示。山の間を抜けると安土城跡。城山の西側一帯は戦後に干拓で埋め立てられたが、信長の安土城は眼下にさざなみが寄せる高さ200メートルの岬だった。

西へ4キロ。八幡山の麓に広がる市街地に入る。秀吉が天下を取り、主がいなくなった安土城の資材を運び、甥の秀次の城として八幡山城と城下町を造営した。城は10年で廃城となったが、町はその後も繁栄した。
近江八幡の観光は古い町並みや堀、水郷巡りが定番だが、2015年に菓子屋のたねや・クラブハリエの「ラ コリーナ」が開業し、人気の観光施設になっている。
近江八幡市は、メンソレータムの近江兄弟社でも知られ、創業者の一人で建築家のW・M・ヴォーリズ(1880~1964)ゆかりの学校や病院がある。米国からキリスト教伝道のため英語教師としてこの町に来た青年は、社会事業や建築設計で活躍。日本人として暮らし、近江八幡市名誉市民第1号に選ばれた。ヴォーリズが設計した建物は教会や学校から個人の住宅まで全国各地に数多く、関西では、心斎橋と神戸元町の大丸百貨店も手掛け、関西学院、神戸女学院などに今も残されている。
「たねや」は、近江八幡で伝統和菓子を作っていたが、ヴォーリズの勧めで洋菓子を作るようになり、しっとりふわふわのバームクーヘンは大人気である。
「ラ コリーナ」の駐車場にクルマを止める。平日の午前だが神戸や名古屋ナンバーの車で満杯。シルバーや家族連れも来ているが、若いカップルが多い。
いそいそとカップル急ぐ雲の峰
この施設を設計したのは建築史家で建築家の藤森照信氏。危なっかしいツリーハウスの茶室、草屋根、銅板屋根など奇抜な建物を作る建築家で知られている。
6年前に来たときは晩秋だったが、建物に向かう笹原の道、三角の草屋根、屋根の上に茂る木々、銅板の巨大な丸い屋根、真ん中に広がる稲田、意味不明の石や土のモニュメント、垣間見えるヴォーリズの洋館と背後の八幡山、錆びたアンティークの自動車…。建物内はお菓子屋らしい清潔な空間なのに、一歩外に出ると、ジブリの世界のようであり、イギリスの田舎のようであり、懐かしい日本の里山のよう。驚きの連続だった。



今回、真夏に来て、驚きは倍増。草も木も伸び放題。枯らさないように撒かれた水が、あちこちで滴っている。しかも、大勢の来場者は誰もがニコニコ顔。
酋長の座す草屋根の夏館
常識ある経営者なら決して採用しないであろう設計案を藤森氏が提示したところ、若い経営者とシェフがこの途方もない遊び心に目を輝かし、オーケーしたとのこと。
この真夏の惨状?を見て、藤森氏は陽に焼けた野武士のようなあのいたずらっぽい顔で大笑いしているだろう。
お土産も買えたので、「ラ コリーナ」を出発。名神高速道路・竜王インターの手前のアウトレットパーク内の創業1839年を誇る近江牛の店に入り、肉の柔らかい「近江牛焼き肉丼」でランチ。コーヒーショップで休憩して、帰路についた。
竜王インターから、大津・京都・天王山を経て、高槻からは新名神高速道路。宝塚サービスエリアの売店で、夕食用に、ちらし寿司の「丹後の鯖寿司」と近江米の特大みたらし団子「ギガ団子」を買って、無事帰宅。
われは湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧や さざなみの 志賀の都よ いざさらば
アフターコロナの初旅は、鯖街道の宿場を訪ね、琵琶湖を半周する旅になった。
日本最大の淡水湖・琵琶湖は、海のように雄大で大自然そのものだった。最後に訪ねた「ラ コリーナ」も、真夏の太陽を浴びて近江の自然に融け合っていた。
1974年、リンの流入による富栄養化と国の進める総合開発計画で死の湖になろうとしていた琵琶湖を、県内の労働団体に押されて滋賀県知事になった40歳の武村正義氏が果敢な取り組みで蘇らせた。知事を12年間務めた後、国政に進出した武村氏は「ムーミンパパ」の愛称で「国の洗濯」に奔走したが、病を得て政界を引退。病を克服した後は大学の客員教授として地球環境問題などに取り組み、2022年9月、惜しまれつつ亡くなった。
琵琶湖の水環境と風景の保全は、後の知事たちに引き継がれ、琵琶湖は今日も静かな佇まいで、関西に住む我々に安全な水を提供してくれている。感謝、感謝。
近江路は三方よしの夏の旅
(2023.8・見水)