細田作品6作品の所感、および細田作品におけるショタとケモノに関する考察。 | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

細田作品6作品の所感、および細田作品におけるショタとケモノに関する考察。

須々木です。

 

 

 

 

 

というわけで、論文を書くのは面倒なのでブログを書きましょう。

 

もちろん人それぞれの解釈があると思いますし、そもそも何かを読み取らなきゃいけないわけでもないので、そのあたりは緩く構えてご覧ください。

 

なお、「時をかける少女」から「竜とそばかすの姫」まで6作品鑑賞(東映退社後制作)を前提としています。

 

6作品に関してガッツリネタバレがあるのでご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1. 6作品についての所感

 

ショタとケモノについて語る前に、6作品を俯瞰しましょう。

 

なお、細田作品は、見る人による差はもちろんのこと、何を物差しとして語るかによってもかなり大きく差が出る気がします。

 

以下の所感でも「良いと思う」「面白いと思う」「好きだ」は微妙に違います。

 

「良いと思うけれど別に好きではない」とかもあるのでご注意。

 

 

 

 

 

 

1.1 時をかける少女(2006年)

 

筒井康隆の小説「時をかける少女」の約20年後を舞台に、原作主人公の姪である紺野真琴が主人公として繰り広げる青春ストーリー。

 

ワンアイデアで一切ぶれずに繰り広げられるエンタメ作品。

 

時間遡行により時系列の把握が少々厄介なので、他要素は極めてシンプルにしているのでしょうか。

主人公の真琴のキャラが圧倒的に強く、視点者としてぶれない印象。

 

そのため、時間軸ではなく、真琴の成長軸を基準にして迷子にならず見られる。

「SF」や「恋愛」ではなく「青春」に特化して描いている点も特徴的。

 

良い意味で割り切っているので、SFや恋愛要素における不完全さは気にならない。

 

 

 

 

 

 

 

1.2 サマーウォーズ(2009年)

 

細田守の初の長編オリジナル作品であり、分かりやすい王道エンタメ作品。

個人的には「ラピュタ」っぽさを感じる部分があった。

 

最年長の女性を精神的支柱とする大家族と、そこでのドタバタ劇。

 

ただし、一つの統一された目的を持ったとき、歯車がかみ合って一気に事が運ぶワクワク感と頼もしさ。

 

そして、そこに外部の人間として混入し、戸惑いつつも立ち位置を見つけていく主人公。


キャラは全体的に好感が持てるし、キャラがたっている。

 

はじめとおわりの対応が非常に明確で、迷う余地がない。

 

見終わった後、非常にスッキリ良い気分になる。
 

ネット上のつながり、リアルのつながりなど、「つながり」というテーマが非常に分かりやすい。

 

リアルのつながりを重視しているようにも見えるが、一方でネットのつながりも肯定的に描いている(ネットでつながった世界中の人々が応援している)。
 

 

 

 

 

 

 

1.3 おおかみこどもの雨と雪(2012年)

 

非常に好みが分かれそうな一作。

 

個人的には、細田作品6作品の中では、かなり抜けた一番の良作と感じる。

 

前作が分かりやすいエンタメだったが、本作ではいきなり別方向に振りきった。

 

ストーリーが展開するわりに答えが提示されないので、人によっては「で、何が言いたいの?」とはなりそう。

 

「絶望」を感じる人と「希望」を感じる人の両方がいそう(個人的に、そういうタイプの作品は嫌いではない)。

「花」に感情移入し、母性に対する過度な期待と要求を敏感に感じる場合、かなり絶望的な気持ちになるかもしれない。

 

「ここまで自己犠牲を強いられなくてはいけないのか」と思うだろう。

(しかし、本作は非常に私的な作品であり、一般化してとらえるのは適切ではないと感じる。また、花への感情移入を回避するため、雪視点の回想モノローグを適宜入れていると思われる)

 

また、序盤の花の行動は、分別ある大人の行動とは言えない面が強く、このパートをどれだけスルーできるかでも印象は大きく変わるだろう。

(個人的には、序盤の流れで「えー・・・これは・・・」と思ったのが、最終的に評価180度反転というイメージ。序盤の流れに引っかかる人は多いと思うが、それで切り捨てるのは勿体ないと感じる)

「雨」や「雪」に感情移入する場合、いつも無償の母性を注いでくれる母の偉大さ、自分を強く求めつつも最終的には手放してくれることのありがたみ、人生の選択権を委ねてくれる信頼感を肯定的に感じるだろう。


「サマーウォーズ」のように世界を広げすぎなかったことで、エンタメ性は下がったが、人物の描写は丁寧になったと感じる。

 

ただし、花に「リアリティー」を求める見方はしない方が良いだろう。

 

「花」は宮崎アニメにおける女性キャラと同様、概念的存在であり超越者。

 

メイン3人でもっとも人間だが、もっとも人間ではない存在と感じる。


見ていて強く感じたのが、「風立ちぬ」のような自伝的要素。

(なお、公開は「風立ちぬ」が一年遅い)

 

細田守は自分を「雨」に重ねているのだろう。

 

自らの半生に後ろめたさを感じつつも、それを必死に肯定的に捉えようとしていると感じる。


語り手である雪について、大人になるまで描いて終わったら、鑑賞後の印象が大きく変わり、エンタメに寄ってより万人受けする作品になる可能性があったと思う。

 

ただ、そこを描かなかったことは個人的に良かったと思う。


途中まで見ていて「細田さんはお母さんを亡くしたのかな」と感じたが、本作はそもそも「母への弔い」の色が非常に濃い。

 

最後のシーンの花(二人の子が離れて一人で暮らす花が、おおかみの遠吠えを聞く)は、作中の設定を無視すれば、むしろ「母の晩年」の描写と言った方がしっくりくる。

 

であるならば、それ以降を描かないのは、ある意味で自然なことと感じる。

 

母に対する思い出に続きはないのだから。

 

なお、細田守の母が亡くなったのは前作「サマーウォーズ」完成後である(本作鑑賞後に調べた)。

 

 

 

 

 

 

1.4 バケモノの子(2015年)

 

前作よりエンタメに戻してきた作品。

 

個人的な印象としては、「千と千尋の神隠し」の細田版。

 

子供が神隠し的に辿り着いたと異世界で成長するが、本作ではより等身大で俗っぽくした印象。

 

もしくは「千と千尋」において母性が成長を促した点を、父性に置き換えたものとも言える。


「家族」というテーマは「サマーウォーズ」以降一貫している。

 

ただ、描き方は結構違いがある。

「おおかみこども」と同様、幼年期から一人立ちまでの過程が描かれている。
 

 

途中から登場する「楓」については、記号的な存在か、主要なキャラかというのが中途半端な印象。

 

途中で登場して途中で離脱するタイプなら許容できたが、クライマックスに絡むなら、もっと手前から仕掛けがあって欲しかった。

 

単なるステレオタイプ無個性キャラであり、かなり安っぽい印象で、雑味になった。


渋天街(バケモノ界)のキャラは魅力的だが、対して人間界のキャラは微妙でリアリティーに乏しい。

 

意図的な演出なのかもしれないが、そのせいで、主人公の蓮が最終的に人間界で生きることを選ぶのが「ポジティブなエンド」なのか際どい印象を受ける。

(蓮は自分で選択しているので、その意味ではポジティブなものとして描かれているとは思うが)

 

最終的に人間界を選ぶ動機についても、いまいち説得力に乏しい印象。

 

「千と千尋」では「家族のもとに帰る」というのは一貫しているが、本作では人間界に実質的に家族はない。

 

むしろ、どちらかと言えば、バケモノ界の方が家族的とも言える。


全体に渡り「蓮の成長の物語」と「九太と熊徹の物語」が分離していて、要素が多くまとまっていない印象を受ける。

 

惜しい。

 

 

 

 

 

 

1.5 未来のミライ(2018年)

 

エンタメと逆方向に振りきった作品。

 

エンタメと非エンタメを交互につくる独自ルールがあるのだろうか。

 

とりあえず、最初のワンカットで「横浜だなあ(金沢区)」だと思った。

中の人に罪はないが、くんちゃんの声が物凄くあっていないと感じた。

 

 

文化庁メディア芸術祭で見かける海外のショートアニメーションのような印象を受ける作品。

 

少なくとも、日本の劇場で一般向けに広く宣伝して公開するタイプのものではないという印象。

 

「サマーウォーズ」のような気持ちで本作を見たら、完全に頭の中が混乱するだろう。

 

これだけ大衆向けじゃないタイプの作品を、大衆向けっぽく宣伝するのは結構な罪ではないかと普通に感じる。

 

宣伝の方針はどうかと思う。
 

 

主人公のくんちゃんは、正直、見ていてかなりイラッとくるが、これはイラッとくるように意図的に誇張して描いていると感じる。

 

このイラッと来る部分が、妙なリアリティーを生んでいるのだろう(リアルの子供と一致するという意味ではなく)。

 

 

これまでの細田作品では、冒頭に世界観説明などを詰め込む漫画的な導入演出が多かったが、本作ではそれがなくなる。

 

というか、作中でも説明などという概念はほぼない。

 

ストーリーではなく記号の連なりで構成されているタイプであり、ストーリーを追って鑑賞することに慣れている多くの人にとって、そもそも見ること自体が厳しいかもしれない。
 

すでにこれだけ名声を得ている人が、このタイミングでこのタイプの作品をつくるというのは凄い。

 

本作は特に海外で高い評価を受けたようだが、その点に関して一切の疑問はない。

 

 

本作に限らず、描かれる家族観が保守的という意見はあるかもしれない。

 

しかし、特にそれを美化しているわけではなく、単にありのままを描いているように見える(単に現代日本の現実)。

 

そもそも、家族という舞台設定はあっても、「あるべき家族の姿」などのテーマはないので、あまり的を射た指摘ではないとも感じる。


細田作品は作品ごとに求められる鑑賞姿勢があまりに大きく振れるので、客はかなりの適応力を強いられるなという印象を改めて強く持った。

(この点は、新海作品と対照的に感じる)

本作に関して、好きか嫌いかと言われると非常に難しいが、間違いなく見て良かったと言える作品で、多くの学びを得られる作品。

 

こういう作品がしかるべき評価を受け、淘汰されない世界であってほしいと感じる。

 

ただ、敢えて言わせてもらうと「未来のミライ」というタイトルにはやや違和感が残る。

 

 

 

 

 

 

 

1.6 竜とそばかすの姫(2021年)


とにかく惜しい作品で、個人的には6作品中6位。

 

「バケモノの子」の良くない点を繰り返している印象も受ける。

 

とにかく要素が多すぎる。

 

B級とエンタメの中途半端な混合。


結果として、キャラの言動に唐突感が見られる。

 

特に、主人公すずの心情はもう少し丁寧に描いて欲しかった。

 


「バケモノの子」と同様、クライマックスに関わる重要キャラが実質的に途中参戦なので唐突感が強い。

 

仮想世界〈U〉でのライブの場面で竜の正体に興味を向ける描写の唐突感が、最終的に解決しないのもかなり致命的に感じる。

 

主人公とリアルのつながりがある誰かが中の人であれば、「そういうことか」ともなっただろうが。

 

一方で、すずの母に関するシナリオを最終的に回収するためには、リアルにつながりのないキャラが必要になってくる。

 

結局、どちらにしろ不完全な印象を与えることになるだろう。

 

「母の喪失から回復する家族の物語」「竜とそばかすの姫の物語」という二つの大きなストーリーラインがほぼ分離して、そこにメインかメインじゃないか際どい多くのキャラのストーリーが絡みつくような感じ。

 

とにかく要素が尺に対し多すぎて、さばききれていない。

 

普通にワンクールアニメくらいの要素であり、映画を見た率直な印象は「やたら質の高いプロトタイプアニメ」。

 

良作の香りが強く漂うのに・・・。

 

無理に3年ごとに公開しなくて良いので、“完成版”を見たかったです。

 

なお、劇中歌は物凄く良かったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2. 細田作品におけるショタとケモノ

 

「ショタ」と「ケモノ」は、細田作品を語る上で避けては通れないテーマでしょう。

 

というわけで、ドヤッと書くほどのことでもありませんが一応書いておきます。

 

たぶん、似たようなことはすでにあちこちで言われていると思いますが。

 

 

 

 

 

 

2.1 6作品に繰り返し登場するショタとケモノ

 

画面的にちょっと出るというものを除いて、とりあえずリストアップしてみます。

 

なお、ショタやケモノの定義はここでは突っ込まず。

 

雰囲気で感じてもらう方向。

 

 

 

●「時をかける少女」

 

【ショタ】 該当要素なし。

【ケモノ】 該当要素なし。

 

 

●「サマーウォーズ」

 

【ショタ】  池沢佳主馬(かずま)。13歳だが、ショタと言って異論はないだろう。

【ケモノ】 OZでの佳主馬のアバター「キングカズマ」。長身のウサギ型で超強い。

 

 

●「おおかみこどもの雨と雪」

 

【ショタ】 花の二人の子供のうち、弟の「雨」の幼少期。父親が「おおかみおとこ」であり、雨もその特質を引き継いでいる。

【ケモノ】 「おおかみ」や狐。

 

 

●「バケモノの子」

 

【ショタ】 主人公の蓮(九太)の幼少期。渋天街(バケモノ界)に迷い込む。

【ケモノ】 熊徹。九太の師匠でバケモノ。渋天街で一、二を争う強さ。

 

 

●「未来のミライ」

 

【ショタ】 主人公のくんちゃん。甘えん坊な4歳。

【ケモノ】 ゆっこ。くんちゃんの家の飼い犬。作中では人間の姿も見せる。

 

 

●「竜とそばかすの姫」

 

【ショタ】 恵と知。父親から虐待を受けている。

【ケモノ】 竜。黒い竜のような獣の姿。仮想世界〈U〉の謎の存在。

 

 

 

 

 

 

 

 

2.2 細田作品における「ショタ」

 

結論から言えば、「細田監督自身を投影したアイコン」だろう。

 

実際、どの作品においても、「ショタ」はマスコットではなく、やたらリアリティーのあるキャラ(場合により過剰に浮くこともある)として描写されている。

重要なのは「ショタを愛でたい」(いわゆるショタ萌え)というわけではないということ。

 

どちらかと言えば「ショタとして愛でられたい」に近いだろう。

 

比較対象として、宮崎作品における「少女」も興味深い。

 

宮崎作品における「少女」の描写からは、一貫して母性の萌芽が垣間見える。

 

「少女」は、母性を神聖視する宮崎作品の根幹をなす存在として、崇拝の対象とも言える描かれ方をされる。

 

対して、細田作品における「ショタ」は、「無償の母性を注がれる対象」「弱かったり失敗したりしても許してもらえる存在」として描かれる傾向が強い。

 

細田作品における「ショタ」は、許して欲しいと訴え続ける。









2.3 細田作品における「ケモノ」

結論から言えば、「憧れの象徴」だろう。

本能を貫ける強さを持ち得た存在として燦然と輝く「ケモノ」は、細田作品に強力なベクトルを与える要素。

 

自然体、野性味、力強さ、活発などの象徴としての「ケモノ」。

 

「ケモノ」は、朱に交わっても赤く染まらない強固なアイデンティティを保ち続ける。

 

すなわち、細田作品とは、非力な「ショタ」としての己からの脱却を願い、自分だけの強さを貫ける「ケモノ」に憧れ、やがて「ケモノ」になろうとする話だと言える。


「サマーウォーズ」において、現実世界で非力な佳主馬は、仮想空間OZで圧倒的な強さを誇る「キングカズマ」として存在する。

 

「おおかみこども」で、雨は、非力な「ショタ」として生きて、やがて「おおかみ」に憧れ、狐を師と仰ぎ「ケモノ」として一人立ちする。

「バケモノの子」では、蓮は非力な人間の「ショタ」として始まり、「ケモノ」を慕い、文字どおり「ケモノ」を取り込んで一人前となる。

 

細田作品において、「ショタ」は「ケモノ」になりたい。

 

故に、「ショタ」と「ケモノ」は二つの独立した要素ではなく、切り離せない表裏の関係であり、すべての根幹であると言える。

 











以上。

 

長々と書きましたが、今回最新作まで一気に見て、作家として追いたいと思うようになりました。

人により細田作品のどこが好きで、どこが嫌いなのか意見が分かれると思いますが、それで良いと思います。




 

sho