アート界隈の言語表現はなかなか面白いと思う。 | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

アート界隈の言語表現はなかなか面白いと思う。

須々木です。


先日、第22回文化庁メディア芸術祭受賞作品展に行って参りました。


 

 

 

 

当然、ひと通り見てきましたが、今回は、受賞作品そのものにはあまり触れず、「受賞作品集」の講評から面白いと思った文章を抜き出していこうと思います。

ほぼ自分のためのメモ書きです。






専門性の高い、つまり、ある程度細分化された特定の界隈で、独特な言語表現が発達していくことはよくあると思いますが、アート界隈に関しても例にもれず。

俗に理系と言われる研究界隈だと、「論理的に明瞭であること」、「誤解のリスクを最小限にすること」などを目的とした、ある種、機械的で客観性のみ追求した味気ない表現が多くなります。

当然、誤って解釈されないよう、定義が明確で専門性の高い(その界隈の外の人から見れば「小難しい」となる)語彙も多用されます。


それと並べると、アート界隈の言語感覚は対極にある気がします。

読む人に解釈を委ねる幅のある表現を重ねつつ、観察者としての主観を際立たせることに特化した言い回しが多く、小説などでもうまく取り入れたら面白い気のするものが散見されます。

そして、せっかくなので、そういったものをしっかり残しておこうというわけです。




以下に取り上げるものは、いずれも無料公開されている「受賞作品集」からの引用です。

※改行は勝手に入れています。いずれも、それぞれの講評の一部抜粋。

しかも、メディア芸術祭そのものとはあまり関係ない次元で、「単に須々木が何となくメモっておきたいと思っただけ」という基準でピックアップしたものです。

なお、前後関係も重要なので、誤読防止のため、興味のある人は元の文章を読むことをおススメします。

 

 

◎ 第22回文化庁メディア芸術祭 受賞作品集[電子書籍版] がダウンロードできます! 【公式サイト】








▼ 「狂気性を孕んだアートはどこへ?」(池上高志/p.236)より

現代は強く新しい技術が台頭した時代てある。
インターネットに始まったその流れはプロックチェーン、ピッグデータ、深層学習、 AIと次々に人の理解を超えて作動するシステムが生まれてきた。
そうした先端技術は当然のごとく多くの作品に影響を与えている一方で、作品には技術とは関係のないところで蠢く恐さが必要なのは言うまでもない。
先日Twitterで東京大学教授の稲見昌彦さんがつぶやいていた。
最近は恐ろしい作品には出合わなくなった。
むしろ応援したい作品が多いと。
そのとおりである。
アートは応援されるようでは駄目なのではないか。
今回の審査でも多くの「応援したくなる」作品群に出合った。
そこには既存のアート作品を叩き潰すような暴力性は存在しない。
むしろ技術にひれ伏すか、きれいにまとまった作品が多かった気がする。
2000年くらいのメディアアート、特にサウンドアートのシーンには怖いものがあった。
国内外ともに、狂気の息吹が確かにそこには感じることができた。
最先端の技術はつねに狂気性を孕んでいる。
手懐けるのは容易ではない。
しかし仮に狂気の芽が再びメディアアートに出現するとしたら、それは新たな技術との戦いにしかないと思う。
それを来年以降に期待したい。



「恐ろしい作品」「応援したい作品」という表現がとてもしっくりきました。
僕自身、傾向として「恐ろしい作品」を求めてしまうので、今回の受賞作品展でも、ぬるま湯につかっているようなもどかしさを感じていました。






▼ 「バイオロジーがメディアアートの次なる課題となる理由」(ゲオアグ・トレメル/p.237-238)より

私たちは刺激的な時代を生さています。
コンピュータと情報技術が20世紀をかたちづくったように、21世紀はバイオロジーとその応用の世紀になる、または、すでになっているといわれています。
しかしこれは、メディアアートとどのような関係があるのでしょうか。
身体とメディア、感覚と装置の距離は着実に縮まっています。
映像を例に挙げると、映画に始まり、テレビを経て、コンピュータやスマートフォンの画面へと、どんどん体に近くなってきています。
しかしこういった「人間の拡張」は、サイボーグやオーグメンテッド・ヒューマン、VRといったテクノファンタジーにおいて、自然の限界を超えていくでしょう。
同時に、生物料学は急進的な変貌を遂げています。
つい最近まで、生物科学は厳密には分析料学であり、解読し、観察し、分類することしかできませんでした。
つまリ、読むことしかできないメディアだったのです。
しかし、CRISPR/Cas9といったゲノム編集ツールの登場により、現在では、根本的なレベルにおいて生命を「書く」にとが可能になり、生物の「読み書き」ができるようになりました。
読み書き操作が可能になったことで、生物学そのものが、最新であり最古でもあるメディアになリました。
こういった新たなテクノロジーが引き起こしている、社会やモラル、倫理の問題に批判的に取り組むことがアーティストの役割であると、私は強く信じています。



メディア芸術祭にバイオロジカルな作品が出てきたとき、何とも言えない違和感を覚え、同時にそれが何かの取っ掛かりのように感じましたが、この文章を読んで、かなりしっくりきました。
そもそも、膨大な遺伝情報を抱えるDNAは、極めて優秀な記録媒体だし、より安定的に活用できるのであれば、未来のコンピューターはDNAの仕組みを組み込んだものになっているかもしれません。
科学技術の進展により「読み書き」が可能になり、条件は整った感があります。
中国の研究者が、ゲノム編集を用いて世界初とされるヒト受精卵の遺伝子操作を行ったとする報道がされて物議をかもしましたが、このようなデザイナーベビーの問題も含め、確かに、メディアアートにおいて「次なる課題」というに足るものと思えます。
というか、メディアアートに留まらず、ありとあらゆる場面において、それこそ日常の何気ない光景にまで侵食してくるであろう、回避不可能な重い課題と思えます。





▼ 「特異点を超えて、ふたたび」(森山朋絵/p.239-240)より

メディアアートが「現代美術の一分野か/むしろ従来の現代美術と遮断されているか」、「独立すべきか/包合されるべきか」という議論はアンビバレンツである。
「メディアアートの民主化」の一方で、過去の作品は時に聖遺物としての運命を辿る。
アートミュージアムを離れ乗り物を変え、エフェメラルな魂はどこへ向かうのだろうか。
もはや「現在の美術」ではない戦後美術としての現代美術に対して、それはダークマターのように厳然とそこに在る。
メディアアート/メディア芸術は大きな流転のなかにある―では「わたしの戦いはいつ終わるのだ…… ?」流転のただなかにあって、一体どこが特異点だったのか―今は誰にもわからないそれを、やがて視る日を楽しみにしている。



比喩や引用を巧みに並べて、何とも表現しがたいものを、何とも表現しがたいという質感を削ぎ落とさずストレートに書いているように感じました。
「ダークマターのように厳然とそこに在る」(ダークマターは、正体不明だけど確かに“ある”とされる)というのは象徴的で、もはや「現在の美術ではない」現代美術という宇宙に対して、メディアアートは確かに在る。
というか、「在るとしか言いようがない、よく分からないけれど」という感じか。
ダークマターの正体が明かされる日がいつか来るように、その姿が明快に記述される時が来るのか。






他にもいろいろありましたが、とりあえずこんな感じで。。


自分の手持ちにない概念や表現に触れるのは、純粋に楽しいものです。
サイエンスもアートも好きですが、結局はこの点の楽しさ故かもしれません。




sho