メアリと魔女の花観たよ(ネタバレ含む)
どうもこんにちは霧島です。最近本当に暑いですね。映画館に住みたい。
というわけで先日公開されたスタジオポノック、米林監督作品「メアリと魔女の花」を観てまいりました。ので思ったことなどを書いていきます。個人的な感想を書き殴ってるだけなので悪しからず。
以下多分にネタバレというか一方的に書いているのでこれから観に行くぞ~!って人は観終わってから読んでね。
はい。というわけで朝一で映画館に行きました。平日なのもあってか入場者はまばら。なんの先入観も持たず、前情報も入れずに観に行ったけれど、意図するところはどこだろう?というところも少し考えつつ。
今作はまず第一に、スタジオジブリではなく、新しく立ち上げられたスタジオポノックの作品であるという点について。これは別に納得できる。ジブリの制作部門は解散したのだから。しかしスタッフの多くがジブリから来ているという点から、その技術(主に作画面)が受け継がれているのはとても良かったと思う。それを踏まえて映画館に到着した私がまず一番初めに疑問に思ったのが、ポスターの煽り文句。「魔女、ふたたび。」
ん???
映画を観た後ならまだしも(そんなことはまずないが)、初見でこれを見て、この作画で、この題材で浮かぶのは間違いなく「魔女の宅急便」であろう。これは比較しろと言っているのか―――…?(魔女宅好き過激派)
とまあ冗談はさておき。
メアリと魔女の花、私の中で一番感じたことは「とにかく物語の中に入っていけない」である。それはなぜなのか?多分に偏った意見ではあると思うが書いておこうと思う。
本編の内容の前に、まずビジュアルから。
これは個人の好みの問題だが、今作のキャラクターデザインは私のなかでグッとくるものではなかった。一番「あっ、好きかも」って思ってたキャラクターはおばあさん(作中では大叔母)の若い頃だったのでほとんど拝めなかった…。
ただ、ビジュアルは一番初めに入ってくる情報だからそれで心を掴めると最強だとは思うけど、結構他の要素と絡まることでどうにでも受け入れられるものだとも思う。
次に、キャラクターの内面が描かれるより先に入ってくる、「声」。今回も俳優さんの起用でしたね。私は個人的に声優さんの出す声と俳優さんの出す声は明らかに声の質が違うと思っている。どちらがいい悪いというわけではなく、端的に言えば俳優さんの方がより「普通っぽい」印象を受ける。(ただ、大竹しのぶさんの声は特徴的だと思うけど)
特に声優として俳優を起用することには肯定的でも否定的でもないが、どちらにせよそのキャラクターにその声が合っているのか?いないのか?が重要だと思う。ここが合わないと、(あまりに違和感がると)もうそれだけで物語の世界に入っていく邪魔をしてしまう。
と、少し横道にそれた入り方をしたけれど、物語に入り込めなかった私の中での一番の原因は「キャラクターを好きになれなかったこと」である。とはいえ、主人公のメアリは十分魅力的な少女だと思う。赤くくせ毛な髪の毛を持ち、何をやっても失敗ばかりだが、思い立ったらすぐ行動、色々なコンプレックスを抱えながらも「変わりたい」と前に進もうとする姿…ここまで書きながら「あれ?私こういうキャラ好きでは?」と思うのだがそれでも好きにはなれなかった。なぜか?それは彼女が嘘をついてしまったからだろうと思う。これは主人公にとってとてもリスキーなことだと思う。嘘をつく、何か卑怯なことをする、こういった行為はもうどうしたってマイナスにしか動かない。それが誰かを不利にする行為であれば尚更である。そういうことをしない、ただただ正しいキャラクターこそ素晴らしい、と言っているのではなくて、そのあとどうリカバリーして行くのかが本当に重要だと思う。その嘘に理由があるならまだしも「え?必要あった?」というのが私はますます腑に落ちなかった。
自分の嘘で他人を巻き込む→巻き込んだ他人を助ける。ではプラスマイナス0になっただけで進まない。ただ助けるだけでこれなのに、最終的に敵に打ち勝ったのは巻き込まれた人間の助けのおかげ…これでは私の中でのメアリの印象がプラスに動かなかったのである。
ここで唐突にサマーウォーズの話をする。主人公の健二くんは自身のアカウントを乗っ取られ、終盤近くまでこれといった活躍は見せない。むしろヒロインの夏希先輩の方がバッタバッタと敵をなぎ倒していく…。画面的には「夏希先輩かっけー!」だけど、それを観ながら心の隅で思ってしまう。「健二くん(主人公)は??」と。
物語において常にプラスに進んでいき、一番活躍する人物、それが主人公だと私は思っている。(ガンガンマイナスに進んでいくのもそれはそれで面白いと思うけど)サマウォでは最後にガツンと健二くんがキめる。それがカタルシスとなる。
コンプレックスを持った主人公が魔法の力を得て新たな世界を知り、幾多の試練を乗り越えてそのコンプレックスすら受け入れる強さを手に入れる―――かと思ったら、結局メアリはその「強さ」を手に入れるところまで至っていないように思うのである。暴走した魔法の力を前に「魔法なんていらない!」というのは、ただ魔法を否定したようにしか映らなかった。「私はそんなものなくても生きていけるくらい成長した、だからいらない」と解釈できるほどメアリが成長しているようには思えなかったのだ。そこがおそらく全編通して一番私の中でモヤッとした部分だ。そういう心情の変化というのは、キャラクターに感情移入できていることがそもそもの大前提だと思う。そこが弱いのが致命的だった。私が一番感情移入というか、共感できたのは、おそらくメアリの使い魔とされていた黒猫のティブだろう…。あの子が一番頑張ってた。←
感情移入ができないということは、物語の世界に入り込めないということだ。それは観ている人に色々なことを考えさせる余地を与える。若き日のメアリの大叔母シャーロットが盗んだ(理由は割愛する)七年に一度しか咲かない夜間飛行がなぜ今このタイミングで?(七年に一度なら結構チャンスは巡ってきてた気がする)、エンドア大学(メアリの敵となる組織)の関係者はなぜ今までそれを捜しに行かなかった?逃げたシャーロットを追わなかった理由は?メアリの大叔母ということはメアリの祖父母の姉妹ということ…とすればその血は地上にも流れている?にも拘わらずメアリには元々魔法の力は存在しない?(そもそもメアリを見て大学側がシャーロットを思い出さなかったのも疑問)、どうしてティブはメアリを森へと誘ったんだ?(「森に怪しげな花があるよ!」となったら普通は飼い主であるピーターの元に行かないか?)などなど冒頭だけでかなり余計なことを考えてしまい、更に物語の中に入れくなってしまう…という負の無限ループ…(こんな感じが結局最後まで続いた)。
映画は冒頭10分が勝負で、ここで観客の心を掴めるかどうかがすごく大事だと言われるのがとてもよくわかった。そうでなければ二時間座り続けるのは結構な苦行だ。
他のキャラクターについても、共感できるほどの描写がされているわけではないので難しい。せっかくガールミーツボーイの要素があるのに、二人は前半ちょっとと後半ちょっとしか行動を共にしないのでそこで友情なり愛情なりが芽生えるのには違和感がある(実際そこまでの描写はないが)。これはただただもったいないと思った。ピーター自身もおそらく母子家庭でなかなか苦しい生活を送っているが、それでも明るく…的な設定があるのだろうけどそこを丁寧に描写せず、一足飛びに「変わりたい」などというものだからとってつけた感が否めなかった。その過程がないと、「ただ言っているだけ」となってしまって残らない。キャラクターが変わりたいと思うその理由、原動力に共感できて初めて、言葉が、想いが響くようになるのだなと実感した。それがなければただ画面の上っ面を眺めることしかできない。そしてそれは絵が美しいことだけではカバーできない。
そして冒頭に戻る。「魔女、ふたたび。」
んん???である。
比較する気は一切ない。そもそも比較しようと思わない。のに、なぜこのキャッチコピーを使ったのかが解せない。エンディングのスタッフロールに「感謝」の項目があり、高畑さん、駿さん、鈴木さんの名前があったのも「ん?」となった理由の一つだ。リスペクト的な意味だろうか。
作画は美しかったけど、新しくはなかったというのが印象として強い。比較する気がなくても彷彿とさせるオマージュの様なシーンの数々(これが悪いといっているのではなくて、新鮮味がなかったという理由)。そこにあるのはひたすらリスペクトだろうけど、呪縛に見えなくもない。というより、ジブリのような作品を作りたい、という意識があるんだろうな。でも結果として完成した作品を見た限りでは、そこにはちぐはぐさを感じる。
ただ、ここまでぐだぐだ書いたけど、観てなんの感情も起こらない作品ではなかった。(負の感情も多いけど)それには意味があったと思う。次回作ではスタジオポノックのオリジナル感溢れる作品を私は観てみたい。
最後になんの前触れもなくメアリとピーター。
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