ユーリ!!! on ICE感想
どうも遊木です。
時間が過ぎるのが早すぎて恐れ戦いております。
今日は以前から予告していた通り「ユーリ!!! on ICE」(以下YOI)の感想を投下しにきました。
あくまでも超個人的な感想と考察なのであしからず。遠慮なくネタバレしているので、中身を見ていない方は回れ右して下さい。
ちなみにアニメ雑誌などはほぼ読んでいないので、作品情報はアニメ12話分と特番、久保先生のツイッターや公式サイトから得られる程度です。
私にとって作品を分析することは、自分の創作においてとても意味のあることなので大学の課題のような文章量を書いていますが、作り手じゃない人からしたら「こんな分析するのは野暮だ」と感じるかもしれません。まぁ自分でも「野暮っちゃー野暮だわ」と思っているので、ここに書いてあることは、一個人の感想として相応に読み流していただければと思います。
まずはざっくりとした感想から。
個人的には展開がやや駆け足の印象でしたが、とても面白かったです。
展開は王道中の王道、「試合に大敗した主人公が、ずっと尊敬していた人と共に技を磨き、世界の頂点を目指す」という、少年漫画のような構成です。しかし、展開が王道だからといって、作品自体が王道系かと聞かれるとそんなことはないという笑
あとは、音楽が良い。OPもEDも物語に合っているし、作中で使われるプログラムの曲も良いです。進撃ぶりにサントラ欲しくなりました。
ではではここからは、世間で割と目にするネタや疑問などに注目しつつ、私個人の意見を主張していきたいと思います。
YOIは「本格フィギュアスケートアニメ」なのか?
これは、物語中盤あたりから疑問の声が上がり始めた内容ですが、個人的には「Yes」だと思っています。
正直、スケートのシーンがあんなにあると思っていませんでした。試合のシーンなどは、普通にテレビでフィギュアスケートを見ているのと同じ感覚で、キスクラでの選手の言動、解説なども含め、演出側の強い拘りを感じました。
では、何故途中から「これは本格フィギュアスケートアニメなのか?」という疑問を抱く人が出てきたかと言うと、大半は勇利とヴィクトルの関係描写が思いのほか濃厚だったせいでしょう。おそらく、最初から「強力な師弟愛が、スケート界を震撼させる!」とか銘打っていたら、誰も違和感を覚えなかったんだと思います。
しかし、それを承知していてなお、私はYOIは「本格フィギュアスケートアニメだった」と思います。
ツイッターなどで感想を漁っているときにふと感じたことですが、ひとつ勘違いしてはいけないのが、「スポーツの本格アニメ=スポ根もの」ではないということです。
多分、上記に疑問を持った人は、例えば二人のユーリがお互いを強く意識してしのぎを削り、最大のライバルとして熱い戦いを繰り広げる…とかいう展開だったら、納得したのではないでしょうか。ターゲット層がもう少し低年齢だったらその展開もありだと思いますが(むしろ超王道ですが)、その場合は設定を大きく変える必要があったと思います。(これについては後述で)
では、どこを見て私がこの作品を「本格」だと感じたかと言うと、出来る限りリアルに再現されている競技などの描写はもちろんですが、一番はスケートに向き合うキャラクターの描き方…というと若干ニュアンスが違う気がしますが、つまり「スケート」と「キャラクター」、この二点の関係描写です。
他のキャラはもちろんですが、散々ネットを騒がせた勇利とヴィクトルの師弟愛の描写でさえ、いつも「スケートのため」という前提があり、彼らの中でそれが崩れることはありませんでした。この作品の主役は、あくまでも「スケート」なんですよね。相関図を作ると、全てのキャラクタから→を向けられているのは「スケート」…という感覚です。
極端な言い方をすると、喜びや、悲しみや、擦れ違いや、ハプニングや、キャラが抱く感情、出会う事件などはすべて「スケート」をより効果的に、魅力的に魅せるためのエッセンスであり、これがFree!とは真逆だな、と思いました。
Free!の場合は、キャラクターが主役であり、彼らの友情や、ライバル心や、仲間たちとの絆の描写が一番の見せ場であって、それをより効果的にするために「水泳」を使っている、という印象です。つまり「水泳」が作品のエッセンスとなっているということですね。実際はどうだかわかりませんが、女性向け作品としてはFree!タイプの方がウケが良さそうなイメージではあります。
なので私は、なんやかんや言ってもYOIは「師弟愛アニメ」ではなく「フィギュアスケートアニメ」だったと思っています。
スポ根みたいな分かりやすいものではなかったですが、そもそも扱っているフィギュアスケートという題材がスポーツなのか芸術なのか…という感じなので、私個人としては、わかりやすい王道バトル的な展開より物語に説得力がありました。正直、スポ根ものならユリオが主人公でも良いなぁとか考えたこともありますが、YOIはスポーツアニメなのにスポ根ものにはせず、かといって女性向け作品なのにFree!タイプとも違う……あえてどっちにもしなかった作品だからこその絶妙なバランスがあった気がします。でもそう考えると、やっぱり主人公は勇利で良かったのかな…ユリオが主人公だとその絶妙なバランスが保てていなかった気もする。
勇利とユリオの関係
「本格フィギュアスケートアニメなのか?」の疑問と同じくらい目にするもので、「“二人のユーリ”とあったから、もっと勇利とユリオの戦いがメインで話が進むと思っていた」という意見があります。
これについては、ディザームービーを見たときは確かに私も同じことを思いましたが、作品の中身を見て納得しました。
なんて表現したら良いかわかりませんが、設定の説得力を追求すると、YOIは勇利とユリオの関係をメインには出来ないんですよね。
何故かと言うと、最終回までは、勇利にとってユリオは彼の“特別”ではなかったからです。
勇利にとってユリオは、年齢も立場も国籍も違うし、クリスのようにジュニア時代からずっと共に戦ってきたわけでも、ピチットのような友人でもない。ユリオがトイレで泣いていた勇利を強襲しなければ、彼の性格上個人として認識もしなかったのではないでしょうか。
温泉オンアイスのために共に過ごした1週間で、確かに他の選手とはちょっと違う認識を持ったとは思いますが、その温泉オンアイスも勇利にとっては、ユリオに勝つことが目的ではなくヴィクトルを繋ぎとめることが目的でした。
現実的に考えても23歳が8歳も年下の少年を簡単には「特別なライバルだ」とは認識しないし(認識したら逆に作品がチープになっていたと思う)、実際に勇利は、始終ユリオに対して「ちょっとの間一緒に練習した、生意気だけどかわいい弟」のような態度で接しています。勇利とユリオの関係を物語のメインにしたかったら、勇利をまず十代の少年にする必要があったでしょう。
そもそもスポーツものなので「ライバル」に該当するキャラは沢山いるんですよね。だから「単なるライバル」という関係ではインパクトに欠ける。かといって、勇利がヴィクトル以上にユリオに思い入れする事件があったわけでもないので、やっぱり設定に対して、アニメの表現は妥当だったのではないかと思います。勇利にとってはユリオよりヴィクトルの方が特別なわけで、ならば「ユリオとの戦い」より「ヴィクトルとの絆」が物語のメインに据えられるのは当然かと。
むしろ、だからこそ最終回で「ユリオが勇利を氷上に繋ぎとめた」というイベントに意味が生まれたんだと思います。このとき初めて、勇利にとってユリオは“特別”になったのではないでしょうか。
一部のユリオファンは、「彼の出番が思いのほか少なかった」と嘆いていますが、私的にはオタベックが言った通り、ユリオはソルジャーとして、あえて大会以外で勇利達となれ合わない表現が逆に良いと思いました。メインの三人で仲良く…みたいななれ合いがなかったからこそ、勇利とヴィクトルにはないユリオの強さが表現されていたと思います。
勝生勇利
主人公の勇利に関しては、かなり序盤から「なんて歪なキャラクターなんだろう」と感じていました。
本人も言っていた通り「自分に自信がない」というのが彼の土台にあるようですが、冷静に考えて男子シングル唯一の特別強化選手で、ヴィクトルがコーチにつく前でも自力でGPFに勝ち進んでいる。…普通にポテンシャル高いだろう?と思うわけです。何故そこまで自信がないんだ…と誰でも感じそうですが、これは一重に彼がヴィクトル以外を見ていないせいでしょう。そりゃ世界トップの人間を基準にしていたら、すべて駄目に見えますよね。
その他にも、穏やかそうに見えてどこか冷たい、内向的なようでアウェイに強い、自信がないようでプライドは高い…などなど、創作の世界のキャラクターとして、勝生勇利はひどく歪で“生っぽい”印象があります。分かりやすく言うなら、非常にリアルの人間らしい。
この勇利の歪さは、最終話でユリオが指摘していた通り、彼が長いことヴィクトル以外を見ていなかったことが原因でしょう。彼は演技中も一貫してヴィクトルのことしか考えていないし、後輩から向けられる羨望も、地元の人間から与えられている優しさにもどこか鈍感で、端的に言えば「他人に興味がない」というスタイルです。けれどプレッシャーだけは感じるという…難儀な性格ですね。
しかし、この「ヴィクトルしか見ていない」というのは、ヴィクトル側にも当てはまることだなと感じています。物語の中で、勇利とヴィクトルはお互いのことしか見ていない。それが一見、師弟愛を超えた美しい絆のようにも感じますが、二人だけの閉じた世界は、競技者としても人間としても、ひどく不健全な状態だと感じました。
ただ、この歪でリアルの人間っぽい勇利の人柄が、私的には、すっと物語に入りこめた理由かなとも思っています。声優を選ぶときも「普通っぽい」表現ができる人を探していたようですし、「僕の名前は勝生勇利、どこにでもいるフィギュア選手で―――」というフレーズが出てくるように、制作側は視聴者に「普通の人の感覚」で勇利に同調して、感情移入して、彼と同じ目線でYOI世界を見て貰うことが狙いだったのではないかと。もしそうだった場合、私は見事にはめられました。良い意味で。
おかげで、序盤のヴィクトルに対する懐疑的な感覚も、彼の名前を背負っていることのプレッシャーも、終盤の彼を選手に戻そうという決意も、とてもすんなり「だよね」と受け入れられました。
そして、この「だよね」の感覚があったからこそ、十話で明かされる衝撃の事実―――まさかの、勇利が信頼できない語り手だったという、物語全体の伏線が最大の効力を発揮したのではないかと思います。
それまでは、どこか違和感があった他のキャラの言い回し―――二話でのヴィクトルの「コーチを引き受ける」や、ユリオの「全部お前のせいだ」や、クリスの「独り占めした罪は重い」や…さらにいうとミケーレの「むっつりスケベ」も、勇利からすると結構言いがかりっぽい内容ばかりで、無視しようと思えば出来るレベルですが、ずっと違和感がありました。特にヴィクトルに関しては「引き受けるって、お前が勝手に押しかけてきたんだろう」と感じた方も結構いたのではないでしょうか。しかし、十話のバンケット事件を前提にもう一度物語を見直すと、最初からおかしいのは勇利の方だったと分かります。このトリックはとても面白かった。
ところで、勇利の心情云々の話で外せないのが「何故十話で勇利は指輪を購入したか」という件です。これについてはネット内でいろいろと議論?されていますが、私的にはあのやり取りに特別な違和感を覚えませんでした。(実は勇利とヴィクトルはお互いに指輪を買い合っていた、という説がありますが、私は普通に勇利がペアリングを買ったと解釈している派です)
ここ一番の試合に臨むのに、お守りに、崇拝している人とお揃いのものを持ちたいという心情は、そんなにおかしいことのようには感じませんでした。これが、高校の担任と生徒…とかだったら違和感がありますが、世界の頂点を目指して練習に励み、寝食を共にし、久保先生曰く恋人よりお互いの理解が求められる関係の二人なら、別段おかしくはないかな、と。なんで指輪なんだ、というと、試合中でもリンクに持ちこめて、演技をしても邪魔にならない&落ちないものというと、もう自然と絞られてきちゃいますよね。何より“絆”とかを意味するなら、演出の上でも指輪が妥当だったのでしょう。(あと個人的に、十話冒頭で勇利がインスタを見ているとき、JJが恋人とのペアリングを写している写真だけ他より長く見ていた演出が、実はその後の伏線になっていた…とかだと面白いなぁと思いました)
結局、この指輪事件の問題は、勇利がペアリングを購入したことではなくて、ヴィクトルが婚約やら結婚やらのフレーズを使ってしまったことなんですよね。このヴィクトルの言い回しは冗談なのか何なのか、真相は闇の中です(ぇ
ヴィクトル・ニキフォロフ
これはもう間違いなく信頼できない語り手、勝生勇利のせいですが、私は、中盤過ぎまでヴィクトルを、何を考えているのかわからない、実は最後の最後で勇利を手ひどく傷つける気なのではないか、など、一種の黒幕的役割だと思っていました。
勇利に同調している視聴者からしたら、そもそもなんでヴィクトルは勇利のもとにきたのかも、何が目的なのかもわからない。八話冒頭ではインタビュアーに意味深な対応をしているし、GPFが終わったら彼がどういう行動を起こすかもわからない…とにかく謎が多いキャラで、みなさん少なからず彼には懐疑的な目を向けていたのではないでしょうか。
しかしふたを開けてみたら、黒幕なんてとんでもない。彼は本当に純粋に、勇利と彼のスケートを求めていた。むしろ、彼にとっては天啓と言っても過言ではない勇利からの「びーまいこーち!」を、当の本人にはすっかり忘れ去られるという可哀想な子でした…。余談ですが、私はこの「黒幕だと思っていたら、実はそこには純粋な想いしかなかった」という流れが好きで、いぬぼくSSのifの世界の双熾が、凜々蝶に対する想いを明かすシーンも好きです。
人物像については、勇利を歪な人間と称しましたが、個人的にヴィクトルは「自覚のある空っぽな人間」という印象です。
二人のユーリにSPを教えるとき、彼は「愛について考えたことはある?」と聞きます。浜辺で勇利と会話するシーンでも「それが俺の愛だからね」と告げています。勇利がFPのテーマを「僕の愛について」と行った時も「最高のテーマだね」と返しています。
ヴィクトルは、ことあるごとに“愛”という表現を使っていました。(ちなみに勇利が使い出したのは、ヴィクトルに「それが俺の愛だから」と言われた影響だと思っています) 表現者として特別おかしいことではないかなと思っていましたが、十話の「二十年以上“Life”と“Love”をほったらかしていた」という彼の語りを踏まえると、その意味合いは大きく変わってきます。
おそらく彼は、愛について考えるし、大切なものだともわかっている。けれどその本質を理解できていないし、観客に与えることはあっても、誰かと共有することを知らなかったのではないかと。だから、自身の問題について、一人で乗り越える方法しか知らないままだったのでしょう。序盤に「愛」という言葉を多用していたのは、一種の自己暗示的なものもあったのかもしれません。
それが勇利と出会ったことにより、個人の問題も、誰かと一緒に挑むことで乗り越える方法があるのだと知る。分かち合ったり、共に背負ったり、そういうことを徐々に学んでいく。(最終話でユリオに助けを求めたハグも、そういうことを学んだからこその行動だったのかもしれません)
そういう目線で物語を見ていくと、ヴィクトルにとって勇利との長谷津での生活は、人間として足りなかったピースを取り戻していく作業で、たとえるなら、空っぽの神様が、人間になるための期間だったように思えます。
彼に関しては、九話あたりにはかなり人間味が出てきて、振る舞いも序盤とかなり変わってきています。しかし問題なのが勇利の意識ですね。当のヴィクトルが欠けたピースを取り戻していく一方、勇利の中ではいつまでもヴィクトルは神様のままで、だから最終話で涙を流すヴィクトルが理解できていない。…ひどい男だ勝生勇利。
ヴィクトルに対する理解なら、おそらくユリオの方が上でしょう。まさしく「〈今までの神様のような〉ヴィクトル・ニキフォロフは死んだ」と言い当てているわけですから。
ユーリ・プリセツキー
序盤は小生意気なガキンチョだと思っていましたが、途中からは、ぶっちゃけた話、彼が一番しっかりしている人間だと感じました。
他人や家族からの愛情を理解し、それを糧に頑張る。とても全うで、年相応の子供っぽい面があっても、行動にはちゃんと筋が通っているし、決して視野も狭くない。(視野に関しては温泉オンアイスの影響が強いと思うので、そういう意味ではあの戦いは勇利よりユリオにとっての方が意味が大きかったのかもしれません)
勇利とヴィクトルは、良くも悪くも二人だけで世界が完結している印象ですが、ユリオはそれを良しとしないで、二人が二人のまま引き籠るのを許さない、もっと世界を見ろ、と二人に外から刺激を与える役割を持っている気がします。
特に、勇利に対してはその意識が強いのかなと。最終話の演技中には「お前はヴィクトル以外はどうでも良いのか」という怒りと、絶対に金メダルを譲らないという強い意思が表現されていました。勇利の完璧な演技を見たかったのも、これからも彼の演技を見たいと思っているのも、ヴィクトルだけじゃない、そのことを必死に訴えている演技だったと思います。
個人的にはラストに主人公補正で勇利が金メダルを取るより、ああいう形でユリオが優勝した展開で良かったです。そのまま勇利が優勝してしまえば、ヴィクトルしか見ていない閉じた世界のまま、彼の物語は終わっていたでしょう。
個人的な萌えの話ですが、私は「片方は別れを意識していて、片方は一緒にいる未来を疑ってない展開」が大変好物です。その点がYOIはドンピシャで、九話のラストで勇利とヴィクトルのすれ違いが始まった時には不謹慎にも「キタコレ!」となりました。(しかし、二人のすれ違いが実は一話から始まっていたとは予想していなかった)
まぁはっきり言うと、勇利からしたら、やっぱりヴィクトルをずっと自分のコーチに縛りつけておくことは出来ないと考えるのが普通だよなーと思います。むしろ勇利がそういう考えに至る可能性を考えていなかったヴィクトルは、満たされた生活に一種の平和ボケ状態だったのかなぁと思いました。(ひどい)
YOIは、この、噛み合っているようで全然噛み合ってない勇利とヴィクトル、そこに加わるユリオを含めた三人の関係が絶妙だと感じます。
勇利を引き上げるヴィクトル、ヴィクトルを満たす勇利、勇利を引き留めたユリオ、ユリオを引き上げる勇利とヴィクトル…三人がそれぞれ主人公のような展開で、誰かが欠けたらまったく違う物語になりそうなバランス。この感覚は、キャラクターを作る上でとても参考になるなと感じました。
主人公といえば、個人的にOPの主人公はヴィクトルだと思っています。十一話の完全版で特に感じましたが、あのOPは、かつて孤高の皇帝としてフィギュア界を牽引してきた彼と、彼と同じステージに上がってきた二人のユーリを表現しているのかなと感じました。あの、段々と完成されていく演出は良かったですね。
あとは、やっぱり何だかんだと言いつつも、作中の“愛”に対する表現が、例えば恋人とか友人とか分かりやすい役割が与えられたものではなく、何かを求め慈しむ、名前のない不安定なものとして表現されているところが非常に私好みでした。
まさにYOIの本質は「一人で抱えるには大きすぎる夢じゃなきゃ、たどり着けない場所がある。僕らは愛という、氷の上のすべてを…」という、最後の勇利の言葉に集約されているのではないでしょうか。
とにかく私は「See You NEXT LEVEL」を信じて、大人しく二期を待つ所存です。
あと個人的に、「ユーリ on ICE」は「YURI on ICE」⇒「YURIO NICE」(ユリオナイス)という説を推していきたい。
ではでは、長文失礼しました。
aki