第19回メディア芸術祭感想 ― 価値ある無駄の到達点へ | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

第19回メディア芸術祭感想 ― 価値ある無駄の到達点へ

どうも遊木です。
生きてます。

ネームに追われてて前回の投稿から少々間があきましたが、ここで第19回メディア芸術祭の感想でも書いとこうかと思います。
分析と言う点では須々木氏がえらくガッツリ書いているので、そちらをどうぞ。
私は例のごとく主観的な感想をつらつら書いていこうと思います。須々木氏とほぼ一緒に回っていたので感想が被るところもあると思いますが、まぁそれはそれということで。
アート部門は作品をいくつかピックアップして、他部門に関しては全体についてざっくり触れています。



さて、まずはアート部門から。

大賞;50 . Shades of Grey



ぶっちゃけ、会場に入った瞬間に「あ、これは理解できないタイプだ」と感じました。
アート部門の大賞は展覧会の最初に置かれる作品ということで、ある種、この芸術祭の顔とも呼べるものです。去年は該当作品なしでしたが、傾向としてアート部門で賞に入る作品はサイズ的に大きなものが多く、「アートは大きいだけでワクワクする」という感覚を最低限満たし、展覧会の現場におけるコンセプトの不明瞭、不可解な部分を視覚的刺激でカバーしている作品が恒例となっていたように感じます。
そんな中での今回の大賞作品。大きさも質量も視覚的刺激もなく、ただ額にプログラミング言語が印刷された紙が入っているだけ。これを見た瞬間、冒頭の感想を抱いたわけです。
前年度に「大賞なし」を出している以上、今年度に選ばれた大賞作品にはそれなりの理由があるのだろうなとは思いましたが、少なくとも自分の知識と感性では現場においてこの作品を理解することは不可能だと感じました。

ただひとつ引っかかったのが、展覧会場で感じた不思議な既視感です。
これは後日判明したことですが、この大賞作品の展示雰囲気が、私が学生時代に授業で考えた展示計画の雰囲気にすごく近かったんですよね。
私が計画したのは、美術展覧会における「詩の展示」でした。ウェブ上にある詩の投稿サイトからいくつかをピックアップし、絵画でも立体でもなく、飾り気のない単なる黒い文字を展示する…そんな感じの計画でしたが、今回の大賞作品である【50 . Shades of Grey】の展示からは、そのとき自分で立てた計画と似た波長を感じました。
考えてみれば、プログラミング“言語”なわけです。分かる人からしてみれば、他の言語と大差ない。つまりあれは、たまたま私が分からない言語を使用した「詩の展示」のようなものであり、そう考えれば展示スペースにおける余白の使い方も額縁での展示方法も理に適っていると感じました。
この視点を得てからは、この作品で作者が表現しようとしたものへの関心が自分の中でぐんと広がったように思えます。まるで、新しい文学への切り口を垣間見た感じです。

…と思ったら、実際の作品コンセプトに「詩的なもの」というイメージがあったんですね。Oh…。
私個人的としては、プログラミング言語を詩的表現として出力し、まるで絵画のように展示するというこの流れは、非常にスマートでありながらデジタルとアナログの狭間にある繊細な雰囲気を残すという、優れた方法だと感じました。
ただし、この感覚を現場で覚えるにはまだまだ修行(?)が足りませんね。アート…難しい。


優秀賞;(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合



この作品は、大賞とは正反対に一見非常に分かりやすい作品でした。
むしろその分かりやすさに違和感を覚える程で、「これはエンタメ部門じゃないか?」と感じる人も多かったのではないかと思います。
後日贈賞理由を読んで、ようやくこの作品がアート部門において優秀賞だった理由が分かりましたが、果たして作者の意図が本当に授賞理由のようなところにあったのかは疑問が残ります。
仮に、「…構図としては、ゴーストライター騒動で話題になった人物が、嘘をつきながらも人々に感銘を与えたことと似る。つまり本作では、遺伝情報の解釈は作者の言うとおり占い程度、すなわちフィクションだが、SFを美術に仕立て問題提起を装いつつ、虚実ないまぜに人々を感動させるプロジェクトだ…(公式サイトより抜粋)」という要素を狙って制作したのであれば、ワリッド・ラードのアトラス・グループプロジェクトとかなり近いコンセプトだと感じます。最終的にはノンフィクションの不安定な存在基盤に言及する、現代の情報化社会にとって非常に正当な作品と言えるでしょう。
しかし、そうなると目新しさはありません。昨今、このような切り口はもはや学生でも考え付きます。二番煎じ感があって、私としては「う~ん」となりました。

個人的には、この作品は、フィクションとノンフィクションに言及する作品としてではなく、また、セクシャルマイノリティの現状に対するポリティカル・アートとしての役割でもなく、同性愛者が望む細やかな願いの具現化という、直球的な存在価値のままで良いのではないかと思います。
私としては、そのような誰かの祈りと重なるアート作品として、素直な視点のままこの作品と対峙した方がよほど意味のあることのように感じました。

昨今のセクシャルマイノリティに対するメディアの動きは、一種の流行りのような感覚を覚えます。故に、表面上彼らの存在を肯定しつつも、やはり端々に「異質な存在」という匂いが残っている。そんな中で、芸術作品として昇華された、本来ならば昇華せずとも良い筈の人として当然の願い、声なき声をこのように形に残していく行為は、凝り固まった私たちの、もっと広い意味での差別的価値基準に警鐘を鳴らし続ける重要な装置になっていると言えるでしょう。
表現という力を持っているアーティストが、声の上げ方がわからない多くの人に代わって制作をし続ける。この行為がとても重要だと思いつつ、そんなことをする必要がない社会になれば良いのにというジレンマが残ります。


優秀賞;Wutbürger



この作品については、展示方法に些か疑問を覚えました。
そもそもこの作品は、作品自体を市街にゲリラ的に設置し、「怒り」を切り口に社会と個人の関係について言及したものです。本来、この“市街にゲリラ的に設置”という点に大きな意味があるはずで、この作品の本質を出来る限り伝えたいならば、やはり市街に設置して見て貰うことが正しい展示方法でしょう。
理想としては政治的権力を象徴する場所などが良いのでしょうが、それが出来なくても、六本木という街を活用したパブリックスペースでの展示方法はいくらでもあったのではないかと思います。市街での設置がどうしても無理ならば、せめてドイツの市街で設置した状況を映像としてまとめ、展覧会場で流しておいて欲しかったです。
美術館での設置に果たして何の意味があるのか、インスタレーション作品の意味とは何なのか、その点について今一度考えるべきかと。


その他の新人賞なども興味深いものが沢山ありました。
特に【Gill & Gill】(映像作品)は良かったです。洗練されたナレーションと、単なるドキュメンタリーでは終わらない見る側を直感的に魅了する映像編集。これらが「人間と岩石の関係」という非常に明確なコンセプトで繋がっていて、約16分間、飽きずに見ることが出来ました。
言葉では説明しにくいのですが、ポジティブな芸術性を感じる作品です。この点は前回のヨコハマトリエンナーレの新港ピアで展示されていた映像作品と通ずるところがありました。「美術の直感的楽しさ」をわかりやすく表現した作品で、681点の映像作品の中から唯一選ばれたというのが納得できます。

あとは、【算道】ですかね。
この作品にはどう転んでも親近感は湧かないのですが、もう「こういうの好きなんだな、うん」で見る側を納得させてしまう不思議な説得力がありました。こういうのが真の萌えなんだろうかと、何故か自分の萌えに対する認識の甘さについて考えさせられました…。









次に、エンターテインメント部門について。

まず、今年度のエンタメ部門については、非常にアート部門寄りの作品が増えたなと感じました。
去年までのエンタメ部門は、例えアートの枠組みでも、やはり娯楽的要素を優先させた、頭の痛くなりそうなアート部門の展示後にどこかほっとさせてくれる作品群という感じでしたが、今回の展示にはその感覚がなかったです。むしろ主催者側もそれをわかっていて、今年の順路はアート部門とエンタメ部門の間にマンガ部門を入れたのかなと思いました。

特に「これはエンタメ部門か?」と感じたのは、【ほったまるびより】と【Black Death】です。どちらも作品としては決してつまらないものではなく、特に黒死病という重いテーマに言及した【Black Death】は、誰かがやらなくてはいけないという作者の使命感すら感じてきます。だからこそ、「エンターテインメント」という部類でこの作品を評価して良いのか、疑問を感じました。
多分これは「エンターテインメントに深さは必要なのか」という部類の話になってくるのだと思いますが、私としては「ごはんおいしいね」というような、人間が感じる当たり前の楽しさを追求していくことに「エンターテインメント」の存在意義があるのではないかと思っています。

前年度までと比べて今年のエンタメ部門は、「直感的に楽しませる」という雰囲気が隠れ、全体的にアート色が強くなりました。そのことによって見る側にも選考側にも、作品分類に対する難しさや行き詰った感を提示することになったと思います。これは後述のアニメーション部門にも当てはまることでしょう。
カテゴライズという考え方がそもそもナンセンスなものになっている中で、メディア芸術祭における作品分類が今後どうなっていくのか、次回の20回目に向けて主催者側が何か手を打ってくるのか、その点に注目して来年を待とうと思います。











次にマンガ部門について。

マンガ部門については、毎年他の部門とあまりにも空気が違い過ぎて感想に困るのですが、その空気の違いこそが漫画と言う媒体の神髄なのかもしれませんね。手間も制作体制も個人の仕事量も、他媒体と一線を画すというか。
もともとマンガ部門は他の部門と比べ、揺るがない存在感と明確さがありました。そして、一昨年、去年と比べ、今年の受賞作はその揺るがなさがさらにレベルアップしたというか、安定していた分野がさらに安定したように感じました。スクロール漫画や外国勢の勢いがなかったからかな?とも思いましたが、エンタメ、アニメ部門共に作品傾向がアート部門に飲み込まれそうになっている中で、マンガ部門だけは媒体としての存在感がまったく揺るがない。だから相対的に見て、今年は余計にそう感じるのかもしれません。

受賞作の内容に関しては、全体的にやや女性寄りな印象を受けるのは例年のことですが、まぁこれは仕方ないと言うか、やはり芸術祭に選考される作品は分かりやすい内容と言うより、一歩読者に踏み込ませるものが多いので、小中学生の男の子が好みそうなものはなかなか入ってきませんよね。
個人的に感じたことが、今年度の受賞作品は「しっかり読んでみたい」と思わせる作品が多かったということ。元々知っていた作品は大賞の【かくかくしかじか】だけでしたが、この作品含め、【淡島百景】【町田くんの世界】などもしっかり読みたいなと思いました。会場に展示されているものは中身のほんの一部でしかないのに、それだけで来た人に「読みたい」と思わせられるのは、結構すごいことだと思います。おそらくそういう作品は作者のこだわりが作品全体に浸透しており、数少ないページ数だけでも見る側を惹きつける洗練された、あるいは密度の濃い表現が出来ているのだと思います。【かくかくしかじか】の「描け」という表現が、まさにそれですね。インパクトがすごい。
ちなみに【死んで生きかえりましたれぽ】はpixivで読んでいましたが、これが受賞しているのを知ったときは、何故だか「う~んなるほど」となりました。最近この作品の内容が他人事ではないので、余計にそう感じるのかと…。

個人的に、自分が創る作品はこういうところに取り上げられるようなものにしたいなぁと思っています。目指せメディア芸術祭出展。









最後にアニメーション部門について。

大賞の【Rhizome】を見た瞬間に、「これはアート部門」だろ、と思いました。
この点に関しては選考委員側の方でもいろいろやり取りがあったようですが、改めて世界的な「アニメーション」という概念と、「ジャパニメーション」が根本的に違うということを浮き彫りにした作品だと思います。
日本人からしてみれば、アニメ=ジャパニメーションであり、それらは芸術作品と言うよりは、もっと俗っぽさを残した親近感のあるものです。これらは、ハイカルチャーではなくあくまでもサブカルチャーとして、より多くの人に寄り沿ってあり続けることに意味を見出しているといっても良いでしょう。所謂美術作品がいまだ失くせていない民衆に対するもどかしい敷居が、日本のアニメや漫画にはない。そんなものだからこそ逆に、芸術祭という場で評価されることに、サブカルチャーのまま芸術という枠組みに食い込んでいくことに、大きな意味があるのではないか。私はそう考えています。
なので、アニメーションという媒体においてジャパニメーションこそ至高と思っているわけでは全然ないのですが、見る側にアートのために作られたアート志向の作品と印象付けるものが、メディア芸術祭のアニメーション部門で大賞を取っていることに複雑な気持ちになりました。作品としての完成度は非常に高いと思うし、フランス哲学をあのような形で表現していること、そしてコンセプトの部分にも強い興味を感じます。しかし、アート部門でも良いじゃないと思うわけです。むしろアート部門でも受賞してただろ、と。
あくまでもアニメーションという「手法」で制作された作品ならば選考対象なんだと思いますが、手法によるカテゴライズなんてそれこそナンセンス。エンタメのところにも書きましたが、今回の選考は作品分類に対する行き詰った感を多方面に露見させたと言って良いでしょう。
しかしまぁ、それとは別の次元で今回の日本勢はパワー不足だったと思います。

ところで今回のアニメ部門はフランス勢がすごかったわけですが、これはアーティストに対するバックアップがかなり強力だったこともひとつの要因でしょう。下世話なことのように聞こえますが、アニメーション制作は当然ながら、作品を制作するにはかなりの資金が必要になります。私も学生時代にこの問題に直面しました。いや、本当に。
良い作品を創るにはとことん拘ることが大切です。しかし、拘りのある作品を創るにはそれなりの資金がいる。その点、充実したバックアップは作品の質にダイレクトに絡んでくると言っても過言ではないと思います。
しかし、何故かわかりませんが、日本のアニメや漫画は、他国の作品より資金不足で影響される部分が少ない気がします。言い方を変えると資金や人材が充実しているからと言って優れた作品が出来るわけではないということなので、一概に良いとは言えませんが、何故だか日本人は充実した設備にいるより、もしくは公的な支援が届かない場所、厳しい環境やら追い詰められた環境にいる方が良い作品を創れている気がします。
例えば、仕事量に対してのアニメーターの薄給具合も、漫画家の労働基準法って何それ美味しいの?みたいな生活も、外国じゃ絶対に成り立たない。しかし彼らが生み出すものは、今や海外からも高い評価を受ける日本が誇るべき文化となっています。そして、コミケやニコ動など、やや日向の世界とは言えないスペースで作られるものの中で、信じられない良作が生まれたりもします。
フランスのように充実したバックアップ体制を整えて欲しい、と思う一方、日本はこのギリギリを生きている感が大事なのかもしれません。実際の所はどうなのかわかりませんが、なかなか複雑な心境ですね。














さて、何だか思うままをつらつら書きましたが、最後に展示ついてさらっと。

これは須々木氏も感想に書いていましたが、文化庁が主催し、尚且つ入場料無料でやるのならば、もう少し作品展示において初心者に配慮した工夫が必要なのではないかと思いました。
これは、ある程度専門の教育を受けていないとピンと来ないことなのかもしれませんが、芸術鑑賞には「見る力」が必要です。鑑賞においてある程度慣れている人は、現場では作品の意図が分からなくても「意味は分からないけど、展示されている部分の数倍も深い内容がこの作品の裏にはあるんだろう」と直感することができます。でも、この感覚は初心者にはほぼない。少なくとも大学に入る前の私にはありませんでした。
だから、もっとわかりやすく「この作品はここに展示されていることの数倍、深い意味があるんだよ~」ということを明記して欲しい。入口はがっぽり万人に開けているのに、会場に入った瞬間に素人を振り落しているのが今の状態だと思うんですよね。

あと、これはここに書いても仕方ないことですが、やっぱり数年前までのように五美大展と被っている方が私的には面白かったし有意義でした。絶対両方を見ていた人がそれなりの人数いたと思うんですよね。
展示が被っているときは、両方の展示を見比べて現在の美大教育に対する考えが深まったり、ある程度の年齢の時にはデジタルツールが普及していた世代の作品について思う所が出来たり、そもそもデジタルを使うことの意味について考察したりもしました。
でも、展示期間が被らなくなってから二つの展覧会を繋げて考えることがなくなってしまい、せっかくあった相乗効果がもったいないなぁと。いや、言っても仕方ないことなんでしょうが…。


最後に。
あらゆる分野で合理化が進む現在、芸術はその正反対の位置にいると言っても良いでしょう。
人生の内で関わらなくても全然構わない、困らないもの。しかし人は、遥か昔から芸術を求め、自らの人生の一部としてきました。
私は、芸術をもっとも「価値のある無駄」だと思っています。
無駄なものとの出会いによって人は新たな価値観を得て、人は無駄な時間を過ごして他者との距離を知る。無駄なものはどこにでも存在し、それ故にあらゆる世界に開けた窓として私たちに様々な可能性を提示してくれる。芸術はその最たるものだと思います。
メディア芸術祭は、そんな価値ある無駄なものたちの一つの到達点として、現代芸術の指針となって欲しいと思うし、なれる可能性を十分に持っていると思います。今後も、社会と人の波に翻弄されながらも、そこに映し出される芸術の本質を次世代に伝えるフェスティバルとして頑張って欲しいと思いました。

以上。


長々書いてしまった…。
あくまでも全部素人の個人的感想でしかないですが、読んで下さった方ありがとうございました。


aki