『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』見ました。
※ネタバレ注意。
須々木です。
スター・ウォーズの「エピソード7」を見てきました。
ちなみに、タイトルは『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(原題:STAR WARS: THE FORCE AWAKENS)で、「エピソード7」は入らないようですが、オープニングクロールでは普通に「EPISODE VII」と表記されています。
さて、数ある作品の中でも思い入れの強いスター・ウォーズの続編なので、語り出したらきりがありませんが、また例によってだらだらと書いていきたいと思います。
まずは、エピソード7に触れる前に、これまでの流れ(個人的なヤツ)を軽く振り返っておきましょう。
最初に見たのがいつだったかは忘れましたが、かなり小さい頃に、旧3部作、今で言うところの「エピソード4~6」を見ました(公開時はうまれてないので、もちろんビデオですが)。
当時としては、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と並んで、ガツンと来た記憶がありました。
今思うと、この感覚がまさにエンターテインメントなんだなと。
それでしばらくしたら、何やら「特別篇」などというものが出回ってきたわけです。
公開より20年を経て、最新の技術により各種改良、シーン追加がかなりガッツリとなされ、より豊かな世界観が描かれたことにビックリしました。
ただ、それ以上にビックリしたのが、タイトルです。
第1作目「スターウォーズ」に副題が追加され、「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」となってるじゃありませんか!!
なぜ第1作なのに、「4」なんだ? ・・・などと思っていたら、新たに「エピソード1~3」が制作されるとのこと。
まさかスター・ウォーズの新作を映画館で見れる日が来るとは!!
正直、ヤバかった。。
エピソード1(1999年)は、内容以上に、ただただ感慨深かった記憶があります。
まだ間に2作あるので、どうつながるのか想像しにくいところはありましたが、それでもしっかりスター・ウォーズで、なんやかんやR2-D2、C-3POが出てきたり。
ここから始まったのかあ、と。
エピソード2(2002年)は、なんじゃこりゃ!!という衝撃。凄すぎた。
ちょうど、ロード・オブ・ザ・リングの第2作と時期的に近かった気がしますが、このあたりが現状で洋画が経験したと言える最後のブレイクスルーだと思っています。
少なくとも、映像的にはここで飽和したのではないかと。
アバターの映像美もとてつもないものですが、それでも、単なる技術の進歩であって、より概念的な意味での「映画の進歩」とは少し違うのかなと。
あとは、ヨーダですね。ヨーダの衝撃たるや。最高。
エピソード3(2005年)は、前後の作品が揃っているので、ある意味で結末の分かっているもの。
しかも、それが確実に悲劇であることを知った上で見るという状況でした。
愛すべきキャラクターたちが幸せになっていかないことを知っているわけで、その点ではなかなか悲痛なものでした。
もちろん、作品としては最高でしたが。うわあああ。
改めて、スター・ウォーズの魅力とは何なのか?
一つは、シンプルな正義と悪の物語であるということ。
たぶん、スター・ウォーズをあまり楽しめない人は、ここのところで引っ掛かるんじゃないかなと思いますが、基本的には超シンプルです。
しかし、それ故に普遍的でもあります。
一方で、キャラや世界観は非常に魅力的です。
キャラに奥深さや深い苦悩や葛藤が見事に描かれているかというと、それは少し違うと思いますが、それでも魅力的です。
描かずして魅力をもたせるというのは、描いて魅力をもたせること以上の難題だと思いますが、それをできている作品は、そうそう思いつくものではありません。
というか、それではいったいどこに魅力の源泉があるのか?
これは、いまだによく分かりません。
世界観やメカ、クリ―チャーの設定は本当に緻密ですが、キャラの行動原理や、シナリオの伏線については、実はいろいろツッコミ所もあるわけで、それにもかかわらず、なぜだかそれがマイナスに作用しない。
フォースの導きとか言っていればどうにかなるので、不思議なものです、本当に。
同じことを他の人がやったら、絶対物凄く陳腐な作品になっちゃうと思うんですけれど。。
そもそも、旧3部作は、「ダース・ベイダーはルークの父である」「レイアはルークの双子の妹である」という情報が明かされても、その経緯は見事にノータッチ。
というか、まず、いきなり帝国と反乱軍が戦っている所から始まって、その理由にもまったく触れずに終えたわけですし。
このあたりは、次の3部作で明かされていきましたが、20年以上スルーしてきたのは容赦ない。
ただ、それでもとにかく面白い。
これこそがエンターテインメントに求められるただ一つの条件であり、スター・ウォーズが映画史に燦然と輝き続ける所以です。
そんなわけで「エピソード7」です。
作品内における時系列としては、当然「エピソード6」の続きに相当し、そこで描かれた「エンドアの戦い」から約30年後を描いています。
「エピソード6」が公開されたのが1983年なので、リアルにもおよそ30年経過しています。
まず、単純な感想ですが、ちゃんと面白くて安心しました。
創造主たるジョージ・ルーカスが実質的には関わっていない作品なので、話題先行で中身の乏しいものになる可能性も考えていましたが、新たなる3部作の1つ目としては、申し分ないものになっているのではないでしょうか。
とりあえず、レジェンドたち(作中においても、我々にとっても)が現れるだけで否がおうにもテンションは上がるわけで、そのあたりは、熱烈なファンの一人でもあるJ.J.エイブラムス監督も心得ています。
ただ、新しさという点では、意外と収穫が少なかった気がします。
方向性としては、「ジュラシック・パーク」と「ジュラシック・ワールド」(関連記事はこちら)の関係が、「エピソード4」と「エピソード7」にもあてはまるように感じます。
一定の期間を経て、新たにシリーズを再始動させるにあたり、原点に果てしないリスペクトを傾ける。
「ジュラシック・パーク」のスピルバーグも、「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカスも、完全なレジェンド級なので、これは当然の流れと言えるでしょう。
ただ、「リスペクト」と「新しさ」のバランスで言うと、「ジュラシック・ワールド」の方が少しうまかったような気もします。
作品がそもそも違いますし、状況も違うので単純に比べるようなものでもありませんが、今回の「エピソード7」の方が、より強く原作者の不在を感じさせました。
やっぱり、ルーカスでないことの影響は大きいなと。
まだ続くものなので、今後の展開により覆る部分はあるかもしれませんが、その前提で、ルーカスのスター・ウォーズとの違いを考えていきます。
特に強く感じたのは、キャラの魅力、エンターテインメント性(シナリオや演出)、クリーチャーやメカの造形です。
個々に深くは触れませんが、いずれも歴然とした差を感じました。
また、歴代スター・ウォーズにおいて、種族として「人間」ではないけれど存在感がやたらとあるキャラクターが多く登場してきましたが、今回はそれが見当たらなかったのも、個人的に気になりました。
チューバッカは今回も登場しましたが、過去のシリーズで、ヨーダ、ジャバ・ザ・ハット、ジャー・ジャーが見せてきた存在感、アクセントに匹敵するようなものは見られませんでした。
「多種多様な種族が生きる世界」という、ルーカスの描いてきた銀河とは、趣を異にするように思えてしまいました。
もともと、スター・ウォーズというのは、単純明快で、無駄に情緒的になることを避けます。
そこが、まさしくアメリカ的エンターテインメントを感じさせる部分。
アメリカが持つ〈神話〉が、せいぜい西部劇くらいまでしか存在しないことに触発され、そのような役割を果たす作品(ある社会集団が拠り所とする物語)を生み出したいと思ったことが「スター・ウォーズ」に至ったとルーカスが語ったことを考え、その上で「原点」を意識するのであれば、やはり「単純明快」こそがスター・ウォーズなのだろうと思います。
その点では、正義と悪の描き方も難しいところです。
特に、悪役については、ダース・ベイダーの圧倒的な存在感を考えると、それを越えるのはさすがに要求が高過ぎる。
実際、「エピソード7」のおける正義と悪の描き方については、ダース・ベイダー級の役を生み出すことは早々に諦めていたのだと感じました。
その代わりというわけではないかもしれませんが、「21世紀の価値観の多様化」はかなり意識されているように感じました。
正義と悪は、今日、ますます割り切れないものとなってきています。
そんな21世紀に、どのような正義と悪を語れば良いのか?
これは、実は、新たにシリーズをつくる上で、最大の難問だったのではないかと思います。
スター・ウォーズの魅力を、揺るがないシンプルな価値観に見出すのであれば、そもそも続編を作る意味はなくなる。
続編を作るのであれば、やはり「新しさ」、「変化」が求められる。
これは、そのまま制作の意義という話になってしまう。
一方で、シンプルさがスター・ウォーズの重要な要素である以上、「割り切れないもの」を作品に組み込み過ぎると、間違いなく違和感が出てくる。
作品を見た限りでは、「割り切れないもの」を組み込みつつ、どうにか他のところでバランスを取ろうとしているように思えました。
ただ、やはりこの部分に関しては違和感がかなりありました。
「エピソード7」も、当然本気を感じるし、制作陣の情熱や愛情を感じます。
しかし、これはおそらく、ルーカスが自分で作れるならつくりたいと思い描いていたエピソード7ではないのだろうとも思いました。
今回、内容そのものは、「エピソード4」のオマージュとも言えるものが、作品の構造そのものにも散見されたわけですが、そのオマージュは、「新たに語られる物語の素晴らしさ」より、「過去に語られた物語の偉大さ」だけをただ見せつけただけにも思えました。
そもそも、エピソード1~6というのは、実質的に、ダース・ベイダーの生い立ちを追うもの。
そして、エピソード6で喪った彼の穴を、そのまま穴として残すにせよ、新たな何かで埋めるにせよ、その後の物語がスター・ウォーズらしさを保ち続けることは本当に難しい。
ただ、続編をつくると決めて動き出した以上、それに挑戦することが求められる。
エピソード1~3を「アナキン3部作」、エピソード4~6を「ルーク3部作」、エピソード7~9を「レイ3部作」と書くこともあるようですが、個人的には、「ルーカス6部作」と「エイブラムス3部作」の方がしっくりきます。
※ただし、エイブラムスが今後の作品にどの程度関わるのかは不明。
ここで言う「ルーカス6部作」とは、「ルーカスが語るダース・ベイダーのいる物語」であり、「エイブラムス3部作」とは「エイブラムスが語るダース・ベイダーのいない物語」となります。
とてつもない困難を伴うミッションであることは明らかですが、過去にとらわれ過ぎずに、新たな神話を語って欲しいと思います。
創造主はルーカスであり、こればかりは揺るがない。
まったく話にならないレベルの戦力差をもった相手です。
だからこそ、エイブラムスの語る続きの物語が、単なる興行的な成功以上のものを手に入れるのであれば、それは歴史的偉業。
伝説的作品の続きとして、「その伝説を称賛するだけで終わる作品」を生み出すのか、伝説的作品の続きとして、「新たな伝説的作品」を生み出すのか。
世界は、後者を求めている。
ただの名作、大作ではダメ。
ミスも許されない。
しかも、可能か不可能かは誰も知らない。
そんな無茶苦茶な状況が、まぎれもなくスター・ウォーズを取り巻く環境であり、それに全力で答えるのが、エンターテインメントの使命。
箱を開けてしまったのだから、とにかくやりきって欲しいとただ願うばかりです。
エピソード8は再来年公開予定。
いろいろ書きましたが、とにかく待ってます!
sho
須々木です。
スター・ウォーズの「エピソード7」を見てきました。
ちなみに、タイトルは『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(原題:STAR WARS: THE FORCE AWAKENS)で、「エピソード7」は入らないようですが、オープニングクロールでは普通に「EPISODE VII」と表記されています。
さて、数ある作品の中でも思い入れの強いスター・ウォーズの続編なので、語り出したらきりがありませんが、また例によってだらだらと書いていきたいと思います。
まずは、エピソード7に触れる前に、これまでの流れ(個人的なヤツ)を軽く振り返っておきましょう。
最初に見たのがいつだったかは忘れましたが、かなり小さい頃に、旧3部作、今で言うところの「エピソード4~6」を見ました(公開時はうまれてないので、もちろんビデオですが)。
当時としては、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と並んで、ガツンと来た記憶がありました。
今思うと、この感覚がまさにエンターテインメントなんだなと。
それでしばらくしたら、何やら「特別篇」などというものが出回ってきたわけです。
公開より20年を経て、最新の技術により各種改良、シーン追加がかなりガッツリとなされ、より豊かな世界観が描かれたことにビックリしました。
ただ、それ以上にビックリしたのが、タイトルです。
第1作目「スターウォーズ」に副題が追加され、「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」となってるじゃありませんか!!
なぜ第1作なのに、「4」なんだ? ・・・などと思っていたら、新たに「エピソード1~3」が制作されるとのこと。
まさかスター・ウォーズの新作を映画館で見れる日が来るとは!!
正直、ヤバかった。。
エピソード1(1999年)は、内容以上に、ただただ感慨深かった記憶があります。
まだ間に2作あるので、どうつながるのか想像しにくいところはありましたが、それでもしっかりスター・ウォーズで、なんやかんやR2-D2、C-3POが出てきたり。
ここから始まったのかあ、と。
エピソード2(2002年)は、なんじゃこりゃ!!という衝撃。凄すぎた。
ちょうど、ロード・オブ・ザ・リングの第2作と時期的に近かった気がしますが、このあたりが現状で洋画が経験したと言える最後のブレイクスルーだと思っています。
少なくとも、映像的にはここで飽和したのではないかと。
アバターの映像美もとてつもないものですが、それでも、単なる技術の進歩であって、より概念的な意味での「映画の進歩」とは少し違うのかなと。
あとは、ヨーダですね。ヨーダの衝撃たるや。最高。
エピソード3(2005年)は、前後の作品が揃っているので、ある意味で結末の分かっているもの。
しかも、それが確実に悲劇であることを知った上で見るという状況でした。
愛すべきキャラクターたちが幸せになっていかないことを知っているわけで、その点ではなかなか悲痛なものでした。
もちろん、作品としては最高でしたが。うわあああ。
改めて、スター・ウォーズの魅力とは何なのか?
一つは、シンプルな正義と悪の物語であるということ。
たぶん、スター・ウォーズをあまり楽しめない人は、ここのところで引っ掛かるんじゃないかなと思いますが、基本的には超シンプルです。
しかし、それ故に普遍的でもあります。
一方で、キャラや世界観は非常に魅力的です。
キャラに奥深さや深い苦悩や葛藤が見事に描かれているかというと、それは少し違うと思いますが、それでも魅力的です。
描かずして魅力をもたせるというのは、描いて魅力をもたせること以上の難題だと思いますが、それをできている作品は、そうそう思いつくものではありません。
というか、それではいったいどこに魅力の源泉があるのか?
これは、いまだによく分かりません。
世界観やメカ、クリ―チャーの設定は本当に緻密ですが、キャラの行動原理や、シナリオの伏線については、実はいろいろツッコミ所もあるわけで、それにもかかわらず、なぜだかそれがマイナスに作用しない。
フォースの導きとか言っていればどうにかなるので、不思議なものです、本当に。
同じことを他の人がやったら、絶対物凄く陳腐な作品になっちゃうと思うんですけれど。。
そもそも、旧3部作は、「ダース・ベイダーはルークの父である」「レイアはルークの双子の妹である」という情報が明かされても、その経緯は見事にノータッチ。
というか、まず、いきなり帝国と反乱軍が戦っている所から始まって、その理由にもまったく触れずに終えたわけですし。
このあたりは、次の3部作で明かされていきましたが、20年以上スルーしてきたのは容赦ない。
ただ、それでもとにかく面白い。
これこそがエンターテインメントに求められるただ一つの条件であり、スター・ウォーズが映画史に燦然と輝き続ける所以です。
そんなわけで「エピソード7」です。
作品内における時系列としては、当然「エピソード6」の続きに相当し、そこで描かれた「エンドアの戦い」から約30年後を描いています。
「エピソード6」が公開されたのが1983年なので、リアルにもおよそ30年経過しています。
まず、単純な感想ですが、ちゃんと面白くて安心しました。
創造主たるジョージ・ルーカスが実質的には関わっていない作品なので、話題先行で中身の乏しいものになる可能性も考えていましたが、新たなる3部作の1つ目としては、申し分ないものになっているのではないでしょうか。
とりあえず、レジェンドたち(作中においても、我々にとっても)が現れるだけで否がおうにもテンションは上がるわけで、そのあたりは、熱烈なファンの一人でもあるJ.J.エイブラムス監督も心得ています。
ただ、新しさという点では、意外と収穫が少なかった気がします。
方向性としては、「ジュラシック・パーク」と「ジュラシック・ワールド」(関連記事はこちら)の関係が、「エピソード4」と「エピソード7」にもあてはまるように感じます。
一定の期間を経て、新たにシリーズを再始動させるにあたり、原点に果てしないリスペクトを傾ける。
「ジュラシック・パーク」のスピルバーグも、「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカスも、完全なレジェンド級なので、これは当然の流れと言えるでしょう。
ただ、「リスペクト」と「新しさ」のバランスで言うと、「ジュラシック・ワールド」の方が少しうまかったような気もします。
作品がそもそも違いますし、状況も違うので単純に比べるようなものでもありませんが、今回の「エピソード7」の方が、より強く原作者の不在を感じさせました。
やっぱり、ルーカスでないことの影響は大きいなと。
まだ続くものなので、今後の展開により覆る部分はあるかもしれませんが、その前提で、ルーカスのスター・ウォーズとの違いを考えていきます。
特に強く感じたのは、キャラの魅力、エンターテインメント性(シナリオや演出)、クリーチャーやメカの造形です。
個々に深くは触れませんが、いずれも歴然とした差を感じました。
また、歴代スター・ウォーズにおいて、種族として「人間」ではないけれど存在感がやたらとあるキャラクターが多く登場してきましたが、今回はそれが見当たらなかったのも、個人的に気になりました。
チューバッカは今回も登場しましたが、過去のシリーズで、ヨーダ、ジャバ・ザ・ハット、ジャー・ジャーが見せてきた存在感、アクセントに匹敵するようなものは見られませんでした。
「多種多様な種族が生きる世界」という、ルーカスの描いてきた銀河とは、趣を異にするように思えてしまいました。
もともと、スター・ウォーズというのは、単純明快で、無駄に情緒的になることを避けます。
そこが、まさしくアメリカ的エンターテインメントを感じさせる部分。
アメリカが持つ〈神話〉が、せいぜい西部劇くらいまでしか存在しないことに触発され、そのような役割を果たす作品(ある社会集団が拠り所とする物語)を生み出したいと思ったことが「スター・ウォーズ」に至ったとルーカスが語ったことを考え、その上で「原点」を意識するのであれば、やはり「単純明快」こそがスター・ウォーズなのだろうと思います。
その点では、正義と悪の描き方も難しいところです。
特に、悪役については、ダース・ベイダーの圧倒的な存在感を考えると、それを越えるのはさすがに要求が高過ぎる。
実際、「エピソード7」のおける正義と悪の描き方については、ダース・ベイダー級の役を生み出すことは早々に諦めていたのだと感じました。
その代わりというわけではないかもしれませんが、「21世紀の価値観の多様化」はかなり意識されているように感じました。
正義と悪は、今日、ますます割り切れないものとなってきています。
そんな21世紀に、どのような正義と悪を語れば良いのか?
これは、実は、新たにシリーズをつくる上で、最大の難問だったのではないかと思います。
スター・ウォーズの魅力を、揺るがないシンプルな価値観に見出すのであれば、そもそも続編を作る意味はなくなる。
続編を作るのであれば、やはり「新しさ」、「変化」が求められる。
これは、そのまま制作の意義という話になってしまう。
一方で、シンプルさがスター・ウォーズの重要な要素である以上、「割り切れないもの」を作品に組み込み過ぎると、間違いなく違和感が出てくる。
作品を見た限りでは、「割り切れないもの」を組み込みつつ、どうにか他のところでバランスを取ろうとしているように思えました。
ただ、やはりこの部分に関しては違和感がかなりありました。
「エピソード7」も、当然本気を感じるし、制作陣の情熱や愛情を感じます。
しかし、これはおそらく、ルーカスが自分で作れるならつくりたいと思い描いていたエピソード7ではないのだろうとも思いました。
今回、内容そのものは、「エピソード4」のオマージュとも言えるものが、作品の構造そのものにも散見されたわけですが、そのオマージュは、「新たに語られる物語の素晴らしさ」より、「過去に語られた物語の偉大さ」だけをただ見せつけただけにも思えました。
そもそも、エピソード1~6というのは、実質的に、ダース・ベイダーの生い立ちを追うもの。
そして、エピソード6で喪った彼の穴を、そのまま穴として残すにせよ、新たな何かで埋めるにせよ、その後の物語がスター・ウォーズらしさを保ち続けることは本当に難しい。
ただ、続編をつくると決めて動き出した以上、それに挑戦することが求められる。
エピソード1~3を「アナキン3部作」、エピソード4~6を「ルーク3部作」、エピソード7~9を「レイ3部作」と書くこともあるようですが、個人的には、「ルーカス6部作」と「エイブラムス3部作」の方がしっくりきます。
※ただし、エイブラムスが今後の作品にどの程度関わるのかは不明。
ここで言う「ルーカス6部作」とは、「ルーカスが語るダース・ベイダーのいる物語」であり、「エイブラムス3部作」とは「エイブラムスが語るダース・ベイダーのいない物語」となります。
とてつもない困難を伴うミッションであることは明らかですが、過去にとらわれ過ぎずに、新たな神話を語って欲しいと思います。
創造主はルーカスであり、こればかりは揺るがない。
まったく話にならないレベルの戦力差をもった相手です。
だからこそ、エイブラムスの語る続きの物語が、単なる興行的な成功以上のものを手に入れるのであれば、それは歴史的偉業。
伝説的作品の続きとして、「その伝説を称賛するだけで終わる作品」を生み出すのか、伝説的作品の続きとして、「新たな伝説的作品」を生み出すのか。
世界は、後者を求めている。
ただの名作、大作ではダメ。
ミスも許されない。
しかも、可能か不可能かは誰も知らない。
そんな無茶苦茶な状況が、まぎれもなくスター・ウォーズを取り巻く環境であり、それに全力で答えるのが、エンターテインメントの使命。
箱を開けてしまったのだから、とにかくやりきって欲しいとただ願うばかりです。
エピソード8は再来年公開予定。
いろいろ書きましたが、とにかく待ってます!
sho