作品のアイデンティティー、キャラのアイデンティティー | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

作品のアイデンティティー、キャラのアイデンティティー

須々木です。

最近、急に夏っぽくなってきましたね。
ビアガーデン行きたい。



さて、皆さんもご存知の通り、実写ドラマ版「デスノート」のキャストが発表されたりしましたね。

今回はそれに関連してつらつらと。




「DEATH NOTE」と言えば、2003~2006年にジャンプで連載され、大いに流行り、数々の名言を残した話題作ですが、今回のドラマ版関連情報が公開されるやいなや、なかなかにいじられまくって・・・というか、普通に炎上しているような感じです。


原作漫画に加え、2006年に公開された実写映画が評価されていることの反動かもしれませんが、もう少し考えてみたいと思います。


まず、オリジナルに対して、二次創作的なものを叩くという流れとも考えられますが、それを言うなら、2006年の映画もかなり大胆なアレンジでした。

結末も全然違いますし。


では、何が許容され、何が拒絶されるのか?


キーワードは「アイデンティティー」かと。


多分に個々の鑑賞者の主観は絡みますが、アイデンティティーが攻撃を受けたと感じたときに、防御反応的に拒絶が発生するのではないか。

そして、多くの人が、共有して持っているより根本的なイメージの部分に改変を加えられようとしているとき、それは相乗効果をもたらし炎上に至る。

※つまり、思い入れの少ない人はスルーできる。


ハリウッドのリメイクとかでありがちですが、「根本的に違うだろ」というやつです。


例;
いや、サムライってそういうのじゃ・・・
いや、忍者ってそういうんじゃ・・・
いや、ゴジ○ってそういうんじゃ・・・








今回のデスノートだとどうか。


多くの人に共有されている作品としての「アイデンティティー」は、おそらく以下のようなもの。


・名前を書くだけで(大した労力を払わず)人を殺せるノートが存在し、それを中心にストーリーが展開される。
・人智の及ばぬ力を持つノートに対し、人並み外れた知能で対抗しようとする。主義は違えど、タイプの似た二人の天才による知能戦
・サスペンス色の強いミステリー的展開。つまり、作者と読者の知恵比べ。




この辺りを維持していれば、媒体が変わってアレンジが加えられても「デスノート」でしょう。

その意味で、2006年の映画は、大胆なアレンジはあっても極めてアイデンティティーに忠実でした。


一方、ドラマのプロデューサーが言うところの「若くて才能あるキャストとともに新しいデスノートを作りたいと思いました。普通の青年がノートを持つことで変貌していく様子を見せるとともに、月とLの対照的な違いを際立たせたい」というのは・・・・


これは、「もはやデスノートにあらず」と言われても仕方がないもの。

別に、「普通の青年」とか誰も求めてない。。



しかし、百歩譲って、「デスノートというノートがあればデスノート」という寛容な意見もあるでしょう。

これは確かに、より上位のアイデンティティーです。
これが最後の砦であり、この砦だけ守ればデスノートと言えそうです。



ただ、どちらにしろ如何ともしがたいのがキャラのアイデンティティーです。


近年のキャラ重視の作品感において、明確にイメージの確立しているキャラを根本的に作り替えるのは、叩かれる理由の筆頭です。

特に、ライトとLに関しては、多くの人がしっかりとイメージを持っています。


「天才大学生だった主人公は平凡な大学生に、Lは、甘いお菓子を過剰に食べるなどの奇行を抑え、天才ぶりに焦点を当てる」らしいですが、ライトの天才っぷりとLの甘党っぷりは、読者のほぼ全員に共有されていたイメージのはずです。


それを改変するというのは、もう別キャラです。
※原作の描写的に、解釈に幅のあるキャラであれば別ですが、本作はそういうタイプでもない。



この点で、極めてうまく立ち回ったのが、「進撃の巨人」の実写映画です。

原作が連載中でどのみちラストを描けない以上、相当なアレンジを求められるわけですが、その中でもかなりキャラが立っている「リヴァイ」をカットしたのは物凄い英断でした。

当然、同様の立ち位置のキャラは組み込まれることでしょうが、別のキャラにその役割を背負わせるというのは、極めてうまいやり方だと思います。




つまり、何が言いたいのか。

「デスノート」の実写ドラマはまあ良いとしても、「普通の青年がノートを持つことで変貌していく様子」を描きたいのであれば、ライトとLじゃなくて、潔く別のキャラを立てて完全に作り替えてくれ!

キャラなめとんのか!と。



結局は、「デスノートに触発されて、自分なりに作品を生み出したい」わけではなく、「デスノート、ライト、Lというネームバリュー(ブランド)を利用して、利益を生み出せる作品を作りたい」ということなんでしょうね。

勿論最終的には、できた作品が面白いかどうかが一番重要だと思いますし、このような否定的な意見を覆すような良作が生み出されることを期待したい気持ちはありますが、近年、特に商業的な創作の現場で見られがちなこの思想そのものに、若干の距離感、人々が求めるものとのギャップを感じずにはいられません。


今回は話題になっているので例に挙げましたが、別に特定の作品、企画に対して恨みがあるとかいうわけではありません。

ただ、純粋に良作が多く生まれることを望む者としては、それに逆行するニオイに対して、何とも言い難いもどかしさを感じるわけです。









sho