新海誠監督作品『言の葉の庭』について | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

新海誠監督作品『言の葉の庭』について

新年一発目ですあけましておめでとうございます(←遅い)。

まあ、サークルとしての挨拶みたいな内容のブログは、すでに代表が書いているので割愛しましょう。


さて、先日のミーティングでは、新海誠監督作品『言の葉の庭』を題材に、あーだこーだと議論とかして学ぶということをしました。

そのとき、各自事前に考えをまとめてくるということになっていたのですが、そのときの自分のレジュメをせっかくだから晒しておきます。

基本的には、そのまんまですが、若干文書校正や注意書きを加えています。
結構長いです。

※ネタばれ要素を多分に含むので、見たことない人はご注意。





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新海誠監督作品『言の葉の庭』について by sho


 まずは感想を

ここまで無条件に素晴らしいと思える作品は、久しぶりかもしれない。
視覚的にも聴覚的にも、言葉の響きも内容も、全体も部分も、はじめから最後まで、すべてがあまりに上質。
この46分という時間も完璧で、密度は高いのにゴチャゴチャした感じもない(いまだに46分だと思えない)。
さらに、何度見ても新たな発見がある奥深さ。
映像作品の、一つの理想形を見せてもらった気がする。

特に、最後のシーンは圧巻であり、目でも耳でもなく、心のもっと深いところに潜む感覚に直接飛び込んでくるようだった。
そして、そんな満足感、心地良さを抱きながら、今はただ純粋に、次回作を期待したい。



 ざっくりと

まずは、「彼女と彼女の猫」(2000年)から、前作「星を追う子ども」(2011年)までの新海作品と比較しながら、本作について、大まかな分析をする。
以下、箇条書きで。

・もともとの新海作品の特徴を基本的にはすべて引き継ぎ、あらゆる点でクオリティーが上がっている。特に、「秒速5センチメートル」の路線を強く継承していると感じる。
・前作「星を追う子ども」ではなくなっていたが、本作で「モノローグ×2」という基本路線に戻った。
・相変わらず、「雨」「鉄道(車両、線路、駅舎、改札、行き先の電光掲示)」の描写が印象的。
・思春期の少女がメインキャラになっていない作品という点では過去作品と一線を画する。「彼女と彼女の猫」以来なので、実質初めてと言える。一方で、「魅力的でありながら、どこかに不安定さを抱える女性」という点では、一貫しているとも言える。
・「登場人物の動機づけ」という点では、本作はすんなり受け入れやすいものだった(過去作品に多かった、なんとも言えない感覚は少ない)。
・過去の作品は、登場人物たちに対し、世界が大きすぎたが、今回は世界の遠景を描かなかったことで、妥当な枠に収まった。この点は、ある意味で、新海誠が「商業作家」となったことを感じさせる。前作まではまだ、「同人作家」的な要素が多く感じられていた。この点については、賛否が分かれるところかもしれない。
・ユキノのマンションの階段での最後の場面は、名シーンである。今までで一番、鑑賞後の爽快感がある。
・本作は間違いなく新海誠の代表作だが、それでも一番“らしさ”を感じるのは「秒速5センチメートル」だと思う。
・過去作品では、村上春樹や宮崎駿の影響をかなり大きく感じさせるものが多かった。その中では、新海誠の色が濃く出ていた「秒速5センチメートル」を経て、本作で完全に作家性を確立した感がある。
・作品の長さを、外的要因(劇場公開の都合etc)に委ねていない点は今回も相変わらず。あくまで、作品の尺は、作品が決めるというスタンスなのだろう。だからこそ、間延びもしなければ、物足りなさもないのかもしれない。



 二人の出逢いのシーンについて

いちいち分析したりするのもかなり無粋だとは思うが、そこを敢えてやっていきましょう。
改めて言うまでもない……みたいなものも含めて、一応整理しましょう。

一度最後まで見ればわかる通り、冒頭の出逢いのシーンには、タカオとユキノが、生徒と先生であるということの伏線が巧妙に張られている。
タカオの台詞、「あの… どこかでお会いしましたっけ?」。
そのあと、ユキノは、タカオの制服の校章に目をやって「会ってるかも」。
このあたりのさり気ない会話は、深読み不可能な冒頭場面だからこそ有効であり、流れも壊さない絶妙な重みを持っている。

そして、去り際にユキノが残した短歌は、「これぞ伏線」と言いたくなるような完璧な役割を与えられている。
最後まで見れば明らかになるわけだが、ユキノが古典の教師であるということの伏線、物語で雨が重要な役割を果たすことの伏線、歌の意味と返し歌の存在が明らかになる場面への伏線、そして、終盤の見せ場への伏線となっている。
同時に、ここでユキノを少しミステリアスに演出し、彼女に対する興味をひきたたせ、視聴者がタカオの視点と同調することを促している。

さらに、直後にタイトル「言の葉の庭」を表示することで、意味を考えようとする視聴者の思考そのものを強制的に切断する、絶妙な引きとなっている。
この和歌が、物語全体を繋ぎ合わせ、さらにタカオとユキオを繋ぎ合わせることとなっていく。
それ自体がアクセントになると同時に、伏線という意味でも非常に優れた仕掛けとなっている。



 タカオの家庭内の描写

家庭内での、タカオと兄とのやりとりは、タカオが如何なる態度で日々を生きているのかを端的に表している。

タカオの、家族に対する客観的な態度(ドライ/喜怒哀楽をはっきりと向けない)は、個人主義的な風潮の強まる現代の感覚を、等身大で描き出している。
家の中の描写も、緻密な書き込みはされているが、ごく一般的なものであり、タカオが現代的感覚を普通に持っているキャラクターであることを示している。
それでいて、タカオの年不相応に落ち着いた雰囲気が、他の人とは違う種類の苦労を味わってきたせいだとわかり、キャラクター描写の説得力が大きく増している。

ところで、一連の場面は画面的にも会話的にも、「耳をすませば」を連想させる。
家を出ていく兄の「部屋が広くなって嬉しいだろ」という台詞や、兄弟の距離感、家の中の雑多な感じ、家庭的とは言えない親、学校の勉強以外に打ち込む主人公。
他の作品ほどではないが、新海誠が宮崎駿から大きな影響を受けていることをうかがわせる場面の一つと言える。
なお、母親に関する考察は、のちほど。



 あまりにも効果的な「雨」

本作の大きな特徴の一つと言えるのが、雨の場面を中心とする環境音である。

特に、19~21分頃の場面(ユキノの足のサイズをはかったりする場面)での雨の音の使い方は秀逸である。
景色を映しているときには環境音(雨の音)、二人だけの世界を描いているときはそれがパタッと聴こえなくなる。
まったく同じ場所にもかかわらず、主観描写を客観描写と対比させることで際立たせ、より真に迫る心情描写を実現している。

また、作品全体を通じ、場面を明確に切り替える上で、雨が有効に利用されている。
梅雨入り前、梅雨、梅雨明け後の晴天、真夏のゲリラ豪雨など、余計な説明を挟まずに自然と切り替わっていっている。
新海誠の過去作品でも、場面を明確に区切る(時間がとぶ)傾向は強く、そのために不自然になることも多かったが、今回はその点で見事な改善がみられる。

当然、物語の展開を暗示するという重要な役割も果たしている。
梅雨のシトシトと降る雨、都会的なゲリラ豪雨などは、ストーリーの展開上の単純な小道具(「雨に塗れる→ユキノの家」という流れにするための小道具)としてだけでなく、新海誠が語りたいニュアンスを代弁している。

ところで、梅雨明け後、晴れが続く公園で、ユキノが一人、「明日、天気になーれ」と言っている場面も印象的だった。



 圧巻の終盤 ~言の葉

ユキノの家での告白から続く会話は、すごい。

「“ユキノさん”じゃなくて、“先生”でしょ」
「先生は来週、引っ越すの。四国の実家に帰るの。ずっと前から決めてたの」
「私はね、あの場所で、1人で歩けるようになる練習をしてたの。靴がなくても」
「だから?」
「だから、今までありがとう、秋月くん」。

ユキノがタカオを傷つけないように、そして同時に自分自身に言い聞かすようにして断る様子は、痛々しい。
「靴」、つまり、タカオなしで1人で歩いていくという選択を言葉に出すユキノの様子は、直前の幸せそうな雰囲気からのギャップで、かなりのインパクトを与える。

さらに、ユキノの返答を聞いた後の、タカオの言動がすごい。
すごいのに、わざとらしくなっていないのが、なおさらすごい。

「あの… この服、ありがとうございました。着替えます」。

「靴」がタカオを象徴するなら、この場面での「服」はユキノを象徴する。
タカオがユキノに「靴」を与え、ユキノがタカオに「服」を与える相互依存関係を、ユキノが拒絶しようとしたわけだが、タカオはここで反転攻勢にでる。
つまり、ユキノが「靴」はいらないと言ったように、タカオは「服」を拒絶した。
そうすることで、ユキノの偽らざる本心を引きずり出そうとした。

靴も履かずにユキノは部屋を飛び出る。
それは自分の心の中につくった部屋(閉ざされた「庭」)から飛び出したことも意味する。

外の世界を歩くためには「靴」が必要だ。
「靴」の拒絶は、外界の拒絶であり、自分の心の中に留まり続けることを意味する。
ユキノは、「靴」の必要性を理解する。
「靴」を取り返すため、ユキノは走る(だからこそ、当然「靴」は履いていない)。

最後の階段の場面は、圧倒される。
すべてはこの場面のために語られていた。

この物語は、二人の人間が「言の葉の庭」で出逢い、惹かれあいながら歩く練習をし、そして最後には「庭」から出ていく様子を描くものだった。
「言の葉」は、単独では意味を為さない。
誰かと共鳴し、世界と共鳴していく中で意味を持つ(返し歌があってこそ)。
だから、「庭」の中にいるうちは、文字通り浮世離れしていて、だからそれ故に幻想的になる。
雨に煙る木立のすき間がとてもよく似合う。

タカオがユキノに向けた言葉は、「庭」から出て歩くことに躊躇していたユキノの背中を押すもの。
そして、最後にタカオに向けられた言葉こそが、まさしく「言の葉」である(さらに言えば、タカオがはじめて感情的に発した言葉も「言の葉」である。タカオは、一足先に「庭」を出て振り返り、ユキノに不器用に手を差し伸べる)。
ユキノという「庭」から、「言の葉」は飛び出して歩き出し、物語は終わる。

「庭」を出て現実に帰れば、それはもう物語ではなくなる。
ひとときの夢のような物語「言の葉の庭」はそこで終わる。
それぞれが「靴」を見つけ、「言の葉の庭」を去ったために。



 完成した靴

タカオは、つくった靴を最終的に渡していない。
場面を遡れば、靴について「誰のかは決めてないけど」と言っていた。
これは、渡す相手を決めていないのか、渡すと決めていないのか、渡す相手が自分の“何”であるか決めかねているのか?

そんなことを思いながら、よくよく見ていると、ユキノからの手紙の最後には、小さく「靴」のイラストが添えられていた。
ユキノは、タカオに「靴」を送ったのだ。
そして、その手紙を畳んだタカオは、静かに、かつてユキノが座っていたその場所に、自分のつくった「靴」を置く。
モノとしての靴は渡されていないが、それでも互いに渡しあえたのだろう。
ここから別々の未来を歩くための「靴」を。

ところで、余談ではあるが、雪景色のベンチに残された靴には、「孤悲」という言葉が不思議なほどマッチすると思った。

※「雪景色のベンチに残された」とは書きましたが、明確に「残された」ことを示す描写はないため、人によって解釈が異なるようです(「ベンチに置いていった」or「持って帰った」)。RW内でも、半々で意見が分かれました。



 母の偶像として

ところで、ここまでのところで挟めなかったので、ここで一つ触れておきたいのが、「ユキノ」と「タカオの母」についての考察である。

ユキノとタカオの母には、数々の類似点が認められる。
一番分かりやすいのは、ともにアルコールをよく飲む点である(「あ、俺じゃなくて母が飲む人だから」)。
また、「年より若く見える」というのも類似点と言えるだろう。
さらに、タカオの母は、「自分より一回り下の男と付き合っている」とのことだが、ユキノとタカオの年もちょうど一回り(12歳差)である。

他にも、タカオが兄に対して、ユキノが残した短歌について尋ねたところ、「こういうのは、おふくろが帰ったら聞けよ」と返された会話から、タカオの母もそういうものを嗜んでいる可能性が考えられる。

物語の端々に、無意識かもしれないが、タカオがユキノに「自分の母」を重ね合わせているように感じる場面が存在する。
そういう視点で見れば、ユキノの前で靴のデザインのデッサンをする様子も、母親に認められたい子供のようである。

そもそも、タカオが靴職人を目指すきっかけに、母親が関わっている。
そして、その場面で、家族は一つになっていた(回想は、はじめてユキノの料理を食べた後に挿入されている)。
そう考えると、タカオが、はじめて靴職人を目指すと他人に言ったその相手がユキノであることは、興味深い。



 追記①:新海作品における「モノローグ」

「言の葉の庭」に限った話ではないが、新海作品に共通する「モノローグ」という表現方法について触れたい。

新海作品は、絵柄などにジブリ(宮崎駿)の影響を強く感じるが、「モノローグ」についてはテレビアニメの影響が濃いのかもしれない。
視覚的な部分では、ジブリ系(ディズニー的手法をわりと素直に継承した流れ)を色濃く感じるが、その中に日本において独自に進化したテレビアニメ的演出(手塚治虫からはじまった。制約された条件の中、妥協と工夫の積み重ねによって至った流れ)の一つである「モノローグ」を落とし込んでいる。

日本のテレビアニメ的な流れは、より少ない予算、人手、セル画で成立させなくてはいけないという、日本の現場が置かれてきた環境に対する試みの積み重ねの産物である。
制約条件は時代とともに変わるものの、基本的に現在のテレビアニメでも当てはまる。
その一つ、「時間的制約」の中、効率良くキャラクターを描くために取り入れられたのが「モノローグ」だろう(「漫画」からの転用だと思われる)。
いまでは当たり前のこの表現手法だが、現実には人のモノローグが聞こえることはない。
つまり、この表現手法そのものが、リアリティーを歪めるものだと言える。
この点で、デフォルメの強いテレビアニメ的作品との親和性は高いが、より多いセル画、より緻密な描き込みを宿命づけられ、より現実よりのリアリティーを求められるジブリ的アニメとの相性は悪かった。

しかし、新海誠は、視覚的にはジブリ的な路線を踏襲しつつも、そこに敢えて「モノローグ」という異物を融合し、新境地を切り開いている。

「モノローグ」という表現方法は、そもそも漫画的であるが、アニメは漫画と違い、台詞とモノローグの区別が難しいことも無視できない。
普通に聞いただけで両者を区別することは難しいため、テレビアニメでは音声にエコーをかけたりすることで、どうにか差を際立たせる。
しかし、新海誠は、その「わかりにくさ」を逆手にとっている。
その差を際立たせるよりはむしろ、その境を曖昧にしようとする傾向がある点は興味深い。
モノローグの最後が、キャラクターの台詞と被る演出(口が動く)で象徴的である。
この演出により、モノローグは、モノローグでない可能性をかすかに残し、リアルとの接続を意識させる。



 追記②:新海作品における「主観/客観」

新海作品の大きな特徴の一つとして、「主観/客観」の両方を同時に描くということが挙げられる。

「主観/客観」の「対立/並立」は「現代社会のテーマ」でもある。
集団の目的、意思を殊更に重視してきたバブル崩壊以前の価値観(ムラ社会的価値観)はなりを潜め、「自分らしさ」を求められる現代(それは、ほとんど脅迫的とも言える)。
社会の目的から個人の目的が切り離されたポストモダン的な現代では、「個人」「主観」を意識する機会は多くなる。

そして、2010年代に入り、ネットやケータイが当たり前となり、当然あるべきインフラとなって世の中に馴染んでくると、今度は「客観」を強く意識させられる。
部屋にいながらにして世界を広く見渡した気になり、全体を全体として俯瞰できる感覚になってくる。
同時に、その見渡した光景の中にいる自分を感じる。
ストリートビューと衛星写真のような視点を同時に持ちながら世界を見つめ生きるのが、現代人には当たり前となっているのではないだろうか(ネットにアクセスすれば、「自分」は客観的なデータに分解され、解析され、オススメ情報が絶えず提示される。「自分」が、広い世界のどこに配置されているのか、分かった気にさせられる)。

「主観」と「客観」は対立する概念であるが、現代では同時に共存もできてしまう。
このことに対し、新海誠は非常に自覚的であるように感じる。

被写界深度を意識したカメラワーク(遠景がぼけたり、近景がぼけたりして、焦点距離が変化していく)は、人の目で見た感覚に近い「主観」的な光景を表現している。
一方で、俯瞰的カメラワーク(しかも、だいたいカメラは動いている)も多用され、「客観」的な視点を意識させられる。

ロケハンに基づく徹底したリアリティーと、リアリティーは保ちつつも現実とは異なる色彩やディテールを実現した描画の両立も、「主観/客観」の並立の一例と言える。
また、環境音やBGMでも「主観/客観」は常に意識されている。

そして、何よりも「主観」的であるはずのモノローグが、自分を俯瞰的に見つめ、たえず自己言及を続ける、どう考えても「客観」的としか言いようがないものになっている点でも、如実に表れている(普通の台詞よりも、モノローグの方が「客観」的であることは、一見すると矛盾のようにも思える)。
新海作品におけるモノローグは、今のところ、どれも「内向き」であり、他人に向けての声にならない台詞ではなく、淡々とした自己分析に終始する。

これら、「主観/客観」というテーマに正面から挑むのは、「現代のアニメ」の一つの道を示しているように感じるし、事実、現代人の感性にマッチしていると思う。
新海作品に対する評価の土台は、ここにあるのではないだろうか。



 追記③:新海作品における「ディテール」

最後に小話を一つ。

大平貴之が個人として開発し、プラネタリウムの常識を覆した「メガスター」。
肉眼でかろうじて見ることのできる星の明るさは6等星である。
にもかかわらず、「メガスター」では、それ以下の暗い星までも、技術の許す限りそのまんま再現した。
つまり、目に見えないものを、目に見えないままプラネタリウムに投影していった。
2013年9月現在、1億4000万個(18等級まで)を投影し、ギネス記録を更新し続けているわけだが、話だけ聞くと、目に見えない星まで再現することに何の意味があるのだろうかと思う人もいるだろう。
しかし、現実には、「見えたとは認識できない星々まで含めた夜空」が、見る人を魅了している。
圧倒的臨場感で衝撃を与え続けている。

僕は、創作における「ディテール」も同様のことが言えると思う。
現実の夜空を模したフィクションとしての天球に浮かぶ見えない星たちと、視聴者たちに認識されない物語のディテールは、まったく同じ役割を演じているのではないだろうか。
ともに、人の心を動かすための重要な要素なのではないか。

これがあるのとないのとで、「見た目」はさほど変わらないかもしれない。
でも、「作品」は確かに変わる。

だからこそ、その手間を惜しむわけにはいかない。
そして、その手間を惜しまないのが新海誠であり、この姿勢は、創作を志す者がもっとも学ぶべきことの一つではないかと思う。




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sho