昨日
桜が散る前に、仕事を休み、久しぶりに本牧山頂公園に足を運んだ。
小高い丘陵、もともとあった自然を生かした広々とのどかな市民の憩いの場。
すぐ眼下には横浜の街並みが見渡せ、海側には工業地帯が望める。
ああ、そういう事なんだ…。
久しぶりの精神的なひどい落ち込みに、先週ずっと自分の心の居場所を模索した。
答えは、どこにあるんだろう?
トーマス・マンの「魔の山」の中?
それよか、サマセット・モームの「人間の絆」を読めばわかる?
そして多分、御釈迦様の教えの中に答えはあるだろう、と。
しかし
書物を読めども、頭の中で理解したつもりでも、すぐに煩わしく辛い思いが心の中を重く支配し苛まれる。
辛いことが、自分の心にぴったりひっつき剥がれない。
うなされたように、数日を過ごす。
昔買った
『道元「禅」の言葉』(境野勝悟 著 三笠書房)
そうだよ、お釈迦様の教えを受け継いだとされる道元禅師の言葉。
この中に答えが見つかりそうな気がする。
…自分の『あるがまま』を受け入れる
以下引用、抜粋
「自分の生命の根っこは宇宙の生命であることを自覚…
…
世の中は沼のような所だ。
世の中しか見えなくなると、人の思惑ばかりが気になってくる。
…
世の中の沼の中で、だんだん自分を見失ってゆく。
…
自分の生命は世の中だけにお世話になって生きているのではないだろう。
自分の生命は、宇宙の力でささえられているのだ。
それこそが自分の生命の『あるがまま』の姿なのだ。」
これなのだ、多分。
そう、文章では理解できる。
だが、自分の心にすっと入ってこなくてもどかしい。
そして
少しだけわかった気がした昨日。
自然が息づく中で、人間のはかなさを知る。
唐突に、答えに近いものは自分の心に降りて来た。
自然はまさに宇宙そのもの。
宇宙はあまりにも、無限で普遍。
何の間違いも起こさない。
この中にあって人間の作った世界なんて、何一つ無意味。
人間の世界なんて、おかしくなるくらいちっぽけで、
人間が作った秩序、法則、ルール、価値観…なんてあまりにもみみっちく、限定的で、ほんのとるに足らな過ぎるもの。
あまりにも刹那的であやふやで、頼りないもの。
人間が作った世界の中だけで、もがかない。
生きる世界は、まるでそこだけじゃない。
人間が作った人工的な縛りなど、ほんのわずかな部分だけ。
そのちっぽけな世界のまさにすぐ隣、手の届く場所に終わりのない宇宙が常に果てしなく存在している。
宇宙である自然の中に一歩身を投じた途端、瞬く間に全ての人工的な縛りは無意味なものとなり、我々は自由を得る。
何故なら、宇宙(=自然)に時と空間を移した途端、全てそこには人間の作ったルールなどほんのわずかもまるで通用しないのだから。
人間は人間を支配出来て(出来たつもりになって)も宇宙は支配出来ない。
決して出来ない。
そして人間もまた紛れもなく、宇宙の子。
他の誰かが作った決まり事に、ひれ伏す事も怯える事もしなくていい。


