ranarcoticらなるこてぃっく
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単に楽しいこと、心地よさを求めてしまうだけなのに。<だから何事もいまいち成功しないんだよ!あと、それって、精神疾患の始まり>

本当は空回っているだけの部分も在るかもしれない。ずっと、本当は頑張れる子なのに、あらゆる本当の心地よさを禁止したり、色々なことをして自分をくるしめていたら、本当に頑張ろうって思った時に
目標の喪失をしている自分がそこにいて。

一体何のためにどう頑張るんだろうとか。人生の根源的な目標に先立つ意味は労働かもしれないと近頃おもったり。

それでも、なかなか私のできそうな仕事は教育を在る程度の基準、受けていて能力が備わっていないと

駄目なものだし。わたしにも達成感を感じられる目標到達の指標となる明確に分かりやすく区切られたステージが欲しいと思う時もあるし、そうやって自ら
<文章書けなくなってきた>
の人生を軌道修正したいって気持ちも在るし。

でもなんか冷めちゃうんだよね。結局この犠牲をはらって得られる代償としての能力はこの程度かって。
自分に失望し過ぎない様に常に高い基準での目標の達成を掲げながらも、より根源的な生きる意味にすら根ざした結果を残せる学校生活っていうのが理想で、それを成し遂げるためには、それを支える家庭での生活のすさんだ部分をあるていど直さなきゃって言うのもあるし。

食事とか、このころよりは何でも食べられる様になってきたし。

何故私は常に高い目標を掲げ続けて、昨日の自分を乗り越え続けなければ行けないのかというプレッシャーについてももう少したまには考えてみたいと思ったり。
今凄く停滞しているのはそのプレッシャーが私をその目標達成から遮る精神状態に至らせるほどに、肥えた目だけが私の能力を嘲笑し続けてその行為すらを無価値にするからだよ。

何か間違っていると思うのは、私にとって満足できる何かが常に完璧に近い状態で達成され得る確約のある私と学校の教育プログラムの不在、商品の不在にもあるよ、消費からそれに代替される似た様な感情を満たそうとしても。
私は何処に行こうと、そして、何に辿り着こうとしているのだろう。。。。。。

<それでもう、そのやってた事は無価値だってなる、物事を軽視し始める自分がいて/自分のできる結果に満足できないだけなのに。主観が支配する世界って怖い>
何か私の文章読んでると苛々して、きつそうな怖い厚化粧の<ぴぐのせい>おばさんだなって、思う。あのつくった顔が怖くって、もうameba使いたくないくらい。
またかよ。

苦手とか、恐怖とか基本的にネガティブな要素から自分を知ろうとするのだね、私、まずは。

でも今回は苦手というより、興味のないものに近いかな?

どうでもいいこと。

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誰が知りたいんだよ、って言うのはおいといて。
基本的に最近文才ないなってきづいた私の自己満ブログだからね。

満足もしてないけどね、デフォで。

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私は、勉強が苦手な癖して、その他の分野、例えばスポーツや、美容関係、美術関係の才能もないのでは
ないかということが近年発覚しつつある、そうとう知恵おくれのおばかさんだという事が判明しまして。

そして、それだけではなく、興味すらないのではないかと。

苦手な事って、いまいち興味が低いだけに何かその物事に接近する様な行為をしてもその行動を行うた

めのモチベーションがいまいちあがらなかったりとかして。

あともっと極端に辛いのは以前好きだったものが嫌いになっている自分を実感している時かな。

まず、私が余り興味のないものは、ハイヒール、現代美術、ライブ、下北沢、池袋、ヘアスタイル、マスカラ、

つけまという一見なんの関連性も互いに在りそうもないごたごたなのですが。

理由は私の好みがつまはじきにしちゃう事が多いからかな。

とくに複雑な理由はないんだけど、単に私の現在の生活の中での存在意義がなくなってきちゃった諸々
かな、って思うの。

私、この一年で洋服の好みから、好きな事まで様変わりしたなって思う。

そういうのって変化は少しづつだから、あまりにも激しく様変わりしたって訳じゃないから、どうしてかって分からない。


人も街も変わるけど、変わらないのは、自分の中で継続的に育んできた能力の奥深さ、もしくは浅さだけで。

生きている限り、そういう現在完了形で表現可能なプロセス、生きた証を蓄えて、常にアップデートされた、
今までで一番素敵な自分を生きているのが今であったらいいけれど。

表面的に生きている人間を見る事を大切にして、視覚的に受け取れる物質としての存在が根本的に人間

の全てだと考えるべきかも

しれないとしたらについてもそのような表面的な物事のつくり得るもののなかにある違和感に含まれて
いるかもしれ
ない。

私が一部の人間を使った文化的な作品に感じる違和感は自分とそういった表現される事柄ら、それに

代表的に使われる人間と自分との落差に、空しさとかやるせなさを感じるからもあるかもしれない。

このような認識に先立つ世界には私の人生は必要ない、排除されていると感じない様にするための

自己防衛本能の働きのなせる技とでもいうか。


単に綺麗とか格好いいって言う。

そういう人を使ってつくっている映画とか。

表面的なものとか目に見えるものをどれだけ信じられるかの限界とか、猜疑心が強いからなんだろうね。

ただ美しいと脳が感じるものを私の目がみるだけで、それに肯定的な評価を下しかけているだけで

軽い罪悪感を感じる。

何か、私は今心の底から大切にしたい何かを探していて、多分それは物事でも、商品でもないと思う。

もっと包括的に人間としての自分を成長させてくれたり、その社会性を実感させてくれる関わりの増加

とかを本当は心の奥底で望んでいるのではないかなという気もしていて。

でもそれは必ずしも人との直接的なかかわり合いの中で得られるものとは限らないんだよね。

今私の心の中の天気も雨模様だと思う。

だから本当は読書をしたりして、もっと間接的に知見を広げるべきなのかもとか。

精神世界にとっての明確な生きている証は、人の表現の中にしかないと思っていて。

それの最も直接的な認識方法は言葉を使っての確認作業であると。

故に、広がりをもたせるためには、私は人生の欠落を補う、知らない世界や言葉を補填しなければ

ならないのかもって。

結局至らなさとか不器用さのうずく理由って言うのは対象喪失からくる悲しみのもたらした、自らの

一貫性や論理性の破綻による、何を大切に思えばいいかわからないという、とっても無意味な空しさ

から、あらゆる明晰さとか、社会に適合している感覚とかがすぽっと抜け

おちて、私をただの心の病んだ病人にカテゴライズしていく雰囲気が言葉の中にも如実にあらわれて自らの意思より先に行進していっ

てしまっていたって感じかな。

案外、孤独<つまり社会的な通念からみて、なにかそこに参画すらさせちゃいけないアウトサイダーな

要素とか、劣った部分が多数派にとってあると感じられるから、孤独にされてないがしろにされていた

私という客観的にみて受動的な自己認識における、見放された感、より強くある主観のここには私と

通う価値観や意識の有り様、好みと相通じるものが見当たらないという、もしかしたら勘違いからくる

アウトサイダー的な自己認識の確立の仕様が常に私の中立的な観点からの社会参画を阻んでいるという

か。単に心を許せない、もしくは自らの他者との関係性における存在の意義が見当たらなくって、とか。>が常に達成しようとしているそのずれて、何処かおかしい境地にこそ

本来の私らしさが現れているかもしれないと考えるとそんな自分の反映である文章の細かなディテール

にいらだって、嫌ってしまったりとか。

結局、自己充足として、一人でありそうで足らないのが私で、観念的に大切な誰かや、信じられる

何かが欲しいのにそれがいまいちしっくりとこれだとはまるようにしてある具体的なピースがあらゆる

物事でなる一つ一つの組み合わされた破片からなる固まりとしても一つの私の完成形に達するまでには

足りないそういう破片が見つからなくって。

それはその一つの私をなしている一つ一つの破片すら間違っていたのではなかという疑問まで催させる

にいたって。

それでも、行動なき考えのつたなさは結局は時間の無駄でしかないとしても。

結局は人生なんて、無駄な時間の暇つぶしに過ぎないのかも知れないよとも思う。