前回からの続き

『抑うつ』

私は昔からよく口にしてたことがあります。
『私は絶対鬱にならないタイプの人間だ』
『鬱にならない自信がある』

でも今振り返ると、あの時は完全に鬱状態だったろうなと
そう思える期間があります。
それはこんなはずじゃあなかった、予想外の乳がんの進行
私が治療を受ける数ヶ月前からその兆候は出始めていたと
思います。自分が無治療を選択した以上、泣き言は言えず
表面上は大丈夫と言っても、多分このままいけばマズイと
心の中で思ってました。
浸出液の出る面積がだんだん広がり、痛みも強くなり
仕事もトラブル続き、泣きっ面に蜂、正にそんな状態で
気がつくといつも右胸に手を当ててました。
痛くなると自然にそこに手がいってしまう、それが癖に
なってしまったようでした。

あの頃唯一の救いだったのが、『久美子ママ』のブログ
偶然に見つけたブログに、私は滅多にコメントすることは
なかったのだけれど、思わずコメントを書き込み、
久美子ママからリコメをいただき、ブログ記事と女子会の方々
のコメントを読むことを楽しみにしてました。
今思い返すと久美子ママに、女子会の皆さんに随分助けられ
たんだなぁと思ってます。
今でもあのブログは特別な存在です。

新しい年を迎え、只々悪化していく状況に流石に
このままではマズイだろうと、入院を決断。
マクロビオティックの食事療法を推奨し、代替療法しか
行わないところ、SNSで見つけ、12月に診察に行った
病院です。私にとってココが最後の砦、完治しなくとも
必ず好転すると信じ、藁をも掴む思いでした。

確か入院したのが2月10日、入院生活のことは過去のブログで
記事にしているので割愛しますが、最初の頃はここで頑張れば
きっと良くなると思っていたのが甘かったのか、
日々悪化していくのが手に取るように分かり、痛いけど
鎮痛剤は禁止されている。やってることは玄米中心の
マクロビオティックの食事1日2食、体を温めること
自身で行う里芋パスタの手当とよく分からない気功等々
しかし滲出液の量も増え、一日2回シート交換、苦痛でした。
(大人用の長方形のオムツシートを3等分にカットして使用)
ただ私の場合、原発巣の腫瘍が育って大きくなるわけでなく、
反対に収縮したのでまだ良かった方かもしれません。

勿論そんな右乳房も持て余していましたが、一番ショック
だったのは右手のリンパ浮腫、日に日に膨らんでいく右手、
ネットで調べたリンパ浮腫のマッサージ、しかし
リンパ節転移しているので、下手にマッサージをすると
がんを悪化させてしまうので、患部の触らないよう気をつけて
毎晩行ってました。効果は殆ど現れませんでしたけれど
このまま放っておくわけにはいかない、何かしなければ
そんな心情だったのでしょう。

あの入院中の1ヶ月と少し、私の病状の悪化と共に、
精神的に追い詰められていきました。
最初は3ヶ月入院して治療に励めば、何らかの結果が得られる
だろうと、安易な気持ちを抱いてました。
しかし乳がんはそんなに甘くはなく、
このままここに居続けても、朽ち果てていくような
自分が壊れていくような、ただ悪化と死を待つだけ、
そんな感じがして、この生活がずっと続くのならそれこそ
抗がん剤治療で死んだ方がマシ、と思う気持ちがフツフツと
湧きあがり、自暴自棄になっていたのでしょう。

病院の食事も食べられなくなり、何もする気もなく
暗い顔で一日を過ごし、夜も眠れず、 鬱に近い状態だったと
思います。

このままココに居てはマズイ、この病院に居続けることが
苦痛でたまらない、そんな時、本当にタイミング良く、
久美子ママの、ばあばさんのコメントを読み、そして、
久美子ママのTV出演が私の気持ちを後押し、退院を決心。

実は入院中のあの頃、私は代替治療で有名な帯津病院へも
電話してます。この病院を出た後どうしようかと
帯津病院で治療できるか、入院できるかと考えたのです。
電話の相談に出た人は、多分相談員の方だったと思いますが
現在の自分の状況を説明すると、標準治療を受けて方がいいと
言われました。今の状態を放置せず治療しなさいと、
多分相談員の方も私のことを心配されていたのでしょう。
2回程電話がかかってきて話をしてます。

私自身がこのままではヤバイ、ここから脱出して次の一歩へ
進もうという気持ちがあったということは、本当の意味では
鬱でなかったのかもしれません。
しかし確実に、入院中の私の精神状態が、ドン底であった
ことに変わりありません。
ドン底にいた私を助けてくれたのは、ただただ寄り添って
くれた友人であり、久美子ママであり、久美子ママのブログと
女子会の方々でした。
改めて『ありがとうございます』を伝えたいと思います。





ぴょん『涼んでたのに』




ぴょん『ジャマしないで欲しいにゃん』