ご報告 | ラミーの日記

ご報告

今日のブログは、あまり良いお話ではありませんし、とても長いです。

あくまでも「記録」に近いので、ご容赦ください。

 

 

 

1月3日に、母が急逝しました。77歳でした。

 

 

12月25日に自宅で転倒。

電話があったので慌てて帰宅すると、倒れて動けなくなった母が居ました。幸いスマホが届く位置にあり、電話を掛けられたそうです。

痛い痛いというので動かせないため、救急車を要請。

おそらく大腿骨を骨折しているだろうということで、搬送が決まりました。

 

母は血液をサラサラにする薬を飲んでいるのですぐに手術が出来ず、よく26日の手術になりました。

手術はうまくいきまして、経過も順調でした。

本人もリハビリには意欲的でした。

 

入院した病院は一切面会することができず、術後に手術室の前室で「よう頑張ったなあ」「うん、ごめんな、ありがとな」と数分話したのが、最後の会話になりました。

 

会えないけれども荷物はほぼ毎日持って行っていました。

受け渡すときに看護師さんに「今日はこれを渡してって言われました」とか「今日は何もないそうです」と聞いて帰る…という感じですね。

 

そんな感じの年越しをし、2日にはいつもの大山祇神社に一人で初詣をし、帰りに買ったみかんを持って行きました。その時も看護師さんに「特に今日はないそうです」と言われたので、そのまま帰宅。

でもいまはLINEがあるので、ちょこちょこ話をしていました。

ニューイヤー駅伝のこととか。

はじめて炊いた、真子の煮つけを差し入れたら、上手にできたなあとか。

 

そして3日。

朝からなかなかLINEの既読がつかないので、おかしいなあ…と思いつつも、確かめようがないのでお昼ご飯を食べていると、病院から電話がありました。

「心臓が停止しているので、すぐ来てください。どのくらいで来れますか」

 

なに言ってんだこいつ、と思いましたよ。

でもこれは大変だと思い、すぐタクシーを呼びました。

足が震えて運転どころではないと思ったからです。

すぐ弟たちにも電話をしましたが、さすがに心臓停止とはいえず…「意識が無いらしいよ」という言い方になりました。

 

病院に着くと、もうかなりダメな状態でした。

一度は心拍が戻りかけたそうですが再び落ちてしまい、このまま何度も蘇生をしても、もう難しいでしょうとのことでした。

これ以上やったらご本人の体を傷つけると言われたので、「もう止めてもらっていいです」と、私が言わなければなりませんでした。

 

それでも最後に、母の心拍がかろうじてあるうちに、そばに行かせてもらえました。

「あんた、リハビリ頑張るって言うたやん」「なにしとんや」

という、叱責が最期の言葉になっちゃった。

 

その後は、最後に引き取るまでの間、ずーっと病室に居させてもらえました。

弟たちも到着し、三人で何とも言えない時間を過ごしました。

 

朝から熱が高かったので、感染症の可能性もあるためCTを撮りに行ったそうです。

戻ってからも特に熱以外は問題なく、看護師さんと会話もしていたそうです。

その1時間半ほど後に巡回に行くと、すでに心拍が低下していたそうです。

 

その日は休日ということで内科の専門医はいないが、急変の原因を調べるためにも、CTを撮っていいかと聞かれたのでぜひそうしてくれと言いました。

CT写真が3年ほど前に撮影したものが残っていたので、それと当日の朝、そして亡くなってから撮影したものを比べて説明を受けました。

 

おそらくこの3年の間に、副腎あたりに腫瘤か血腫のようなものができていたようです。

それが死後の写真では出血した後がありました。

血液サラサラ薬を飲んでいるので、そりゃ、止まりませんよね…

おそらく死因は「失血性ショック」ということでした。

 

さらに詳しく調べることができるので、もしよければ病理解剖を…と言われ、やってもらう気でいたのですが、もうその時に16時半ごろだったし、休日ということで翌日の解剖になると言われたんですね。

さすがにそんなに長い時間、一人で霊安室には置いておけないよね…ということで、もう連れて帰ろうということにしました。

 

取り乱している自分がいる一方で、めちゃくちゃ冷静な自分もいて。

弟たちが到着するまでに葬儀社の目星をつけ、連絡し、およその引き取り時間まで手配してた私って、えらいよね。

 

 

…と、こんな感じで。

まさに「急逝」としか言いようのない状態で、いってしまいました。

 

連れて帰ると言ってもマンションなので、自宅には入れません。管理人さんが居ればストレッチャーが入れますけど、休日だし…

そう言うと葬儀社の方が「寄り道はできますよ」と言ってくださいました。

そこでマンション駐車場を一周していただきました。

そのときに5分ほど待ってもらってマルコを連れて降り、会わせることができました。

いい方に担当してもらえてよかったなあと思いました。

 

その日はひとまず控室的なところに母を寝かせたので、私はそこで一緒に寝ました。

(弟たちは準備があるのでいったん帰宅)

故人のお茶碗とお箸、あと着せたい服などを取りに戻ったり…

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お箸は高崎だるまのついたものを愛用していました。

 

夜中に寒かったので、羽毛布団を取りに帰ったり…ほとんど眠れなかったけれども時々うとうとして、朝を迎えました。

本番(?)のお通夜では仮眠用のお布団が借りられるんですけど…

あくまで控室なので、座布団をつなげての仮眠でしたが、母と一緒に眠れて本当に良かったです。

ずっと、病院で「帰りたい」「松の内には帰りたかった」って言ってからなあ。

 

その後、お通夜の前にきれいに整えて、お気に入りの服に着替えた姿は、ただ寝ているだけみたいでしたね。

まだそこまでお婆さんじゃなかったし(笑)、病みやつれていたわけでもないし。

きっと本人も、まだ生きているつもりかもしれません。

 

お通夜と葬儀は、ごくごく内輪でおこないました。

それぞれの勤め先からの弔電や供花などもお断りしました。

でも、とてもいい雰囲気で送り出せたと思います。

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母と行ったディズニーランドの、ミニーちゃんブランケットを着せてやりました。

あとは愛用の竹の靴ベラと、私が初詣でもらった病気平癒のお守り。枕元に置いてあったので。

 

 

 

そして、本日1月9日が初七日の法要でした。

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毎日は作れんけど、節目だから頑張りました。

 

 

いま母のいる祭壇は、テレビの向かい側…

ソファの定位置と同じところです。

(祭壇を置くためにソファは移動させた)

いつもと同じようにテレビを見、YouTubeを見ているような感じです。

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亡くなる前に1週間ほど入院していたこともあるので、なんだかまだ入院しているだけのような気がしています。

だから実感がわかないというか、理解が追いつかないというか。

いまはまだ、手続きとか法事とか、やらないといけないことが山積みだからそう思うだけでしょうね。

どこかで、緊張の糸が切れるんでしょうねえ…こわ!

 

 

 

以上、ご報告でした。

共通のブロ友さんも多かったですし、私のブログで母のことをなんとなく親しんでくださった方も多かったと思います。

母の生前には、本当にお世話になりました。

このような形でのご報告となりましたことを、お許しください。

 

母と行った弾丸旅行や三桁酷道の旅は、本当に楽しかったです。

 

 

 

そうそう、マルコは元気です。

急変した時から今まで、よく頑張って留守番をしてくれました。

葬儀場が比較的家から近かったので、1日に2度ほど様子を見に帰ることもできましたしね。

 

 

それでは、ブログは…ちょっとお休みするかもしれませんし、突然再開するかもしれませんが、温かく見守ってやっていただけると嬉しいです。