海老フライにはソース?タルタル?塩?醤油?  ブログネタ:海老フライにはソース?タルタル?塩?醤油?  参加中

私はタルタル派!


え?海老フライに醤油かける人、いるんですか?

選択肢の中に醤油が入っていることにまず驚きました。海老フライといっても、各地に食べ方があって、地域の特色となっているもののひとつかもしれません。しかし、醤油とは・・・

ということで、消去法で、問題外の醤油が消えました。確かにね、醤油は和食の万能調味料ですよ。料理に欠かせない「さしすせそ」ですよ。和食は言うに及ばず、最近では、洋食にも隠し味として利用されるくらい、「ソイソース」は有名です。世界に誇る日本の伝統調味料です。

と、これだけ褒めそやしながらも、僕は、海老フライには合わないと思います。そもそもその発想自体がありませんでした。今では、洋食というより、日本食になってしまっている、カレーライスや海老フライやトンカツ。確かにね、カレーに醤油はありだと思いますよ。でも、絵部フライはだめです。あり得ません。

塩。世界基準の調味料です。塩あってこそのホモサピエンスと言っても過言ではない、基本中の基本です。体から塩分がなくなると人は生きていけません。といって、撮り過ぎもいけないのですが、どこの国でも、料理に塩は欠かせません。でもご存じでしょうか。料理に塩を用いるようになったのは、ホモサピエンスの歴史の中で、比較的歴史が浅いのです。必要なのに使わなかった、いや、利用できなかったといってもいいでしょう。岩塩や海水から塩を作り出す技術は石器時代にはありませんでした。日本でも、平安時代、もしくはそれ以降も、塩で味付けは限られた人しか味わえませんでした。

それはともかく。

で、海老フライに塩、ですか。塩で食べるなら、天ぷらの方がおいしいと思います。天ぷらならあっさりして海老本来の味が引き立つと、個人的には考えます。だから、塩で食べるなら、海老は天ぷら。

あとは、ソースかタルタルかですね。

洋食の調味料としてどちらも定番というか、王道というか、邪道じゃないというか、冒険心がないというか。個人的には海老フライにはどちらでもいいような気がしています。海老フライにはソースかタルタル。ソースはその甘みで海老の味を更においしくします。フライものによく合います。

そう、フライものにはソースですよね。かの有名な大阪の串カツも、「ソース二度漬けごめん」というくらいですから、フライものにはソースは欠かせないのです。だから、海老フライのソース派はかなり多いと思います。おいしいですよ、ソースをかけた海老フライは。間違いなくおいしいです。でも、ここは、どちらかを選ばなくてはなりません。

むむむ。どうしようかと悩んだ結果、タルタルソースに軍配が上がりました。

なぜか。

決め手は、酸味です。タルタルソースは、確か、フランスのタルタルステーキから生まれた、という説があったような気がします。未確認ですが、フランス生まれの調味料ということですか。普通のソースは甘いのに比べて、こちらには酸味があります。当然ですよね、マヨネーズが主原料となっているわけですから。その酸味が海老フライの味を引き締めてくれます。フライという油ものを酸味がうまく消してくれて、海老本来の甘さをうまく引き立たせていると思います。酸味できりっと味を引き締め、海老本来の甘さを堪能できるタルタルソースは、やはり、一番の調味料です。おいしいですよね、タルタルソースで食べる海老フライは。

おいおい、こんなに海老フライのことを書いていたら、昼ご飯が海老フライになってしまうではないか。

けど、本当に海老フライを食べようと思ったら、高いんですよね・・・



海老フライにはソース?タルタル?塩?醤油? 
  • ソース
  • タルタル
  • 醤油

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昨日、ニュージーランド、クライストチャーチで地震が発生しました。

僕は、昔、語学研修で彼の地に2週間滞在していました。語学研修先の学校は、倒壊して、日本人の安否が気遣われている、まさに同じ場所です。

シンボルの大聖堂も倒壊しました。

思い出深いクライストチャーチの町が、見るも無惨に倒壊している。現実をなかなか受け入れられないでいます。

今日1日、被害に遭われた皆さん、亡くなられた皆さんを偲んで、喪に服したいと思います。

どうか、生き埋めにされた方々が、無事に救出されますように心から願っています。
予想通りの展開ですね、「江」。

やたらと軸となる史実に介入してくる。まあ、分かっていたことですけど、それにしても清洲会議を盗み聞きするとは・・・。予想外でした。我が愛しきお市の方は、嫁ぐ決意を示されました。「武将の心で嫁ぐのじゃ」さすがお市の方様でござりまする。その御決意。並々ならぬものと心得まする。

それはさておき、おね様がまだまだおとなしいのがちょいと気がかりです。お茶々を側室に迎えるまでは、このままいくのでしょうか。女優さんが女優さんだけに、これから、本領を発揮してくれるのでしょう。期待しています。

秀吉は、柔硬織り交ぜていい秀吉を演じていると思います。ただ、秀吉もまだまだおとなしい方で、晩年、どういう演技をしてくれるのか、大いに期待したいと思います。

三法師と面会し、おねとも関わり、清洲会議まで盗み聞きする江。とにかく関わり続けるのでしょう。この展開だと、賤ヶ岳の戦いは、あっという間にやり過ごされるのでしょう。それよりも、柴田家に嫁いだお市の方家族が、いかに柴田勝家と関わっていくかの方に重点が置かれるのではないかと予想します。

北の庄は現在の福井市。ちょっと調べてみると、一説には、九重の店主を持つ壮麗な城であったとあります。歴史の転換点である賤ヶ岳の戦いはあっさり流して、江を取り巻く周囲の出来事の方に重点が置かれるでしょう。江が北の庄にいた期間はそれほど長くありません。でも、姫目線の戦国ですから、きっとそこでの出来事を、フィクションを交え、物語は展開していく。賤ヶ岳へ至る駆け引きは、一話で終わりかなあ。

この大河ドラマは、戦の場面を重視していません。そういう大河ドラマを見たいなら、多分、がっかりする人もいるでしょう。でも、姫目線の戦国も、やたらと関わるフィクションもなんとかつじつまが合うように展開しているわけで、それはそれで、楽しんでみたいと思います。

お市の方様、どうか、いさぎよい御最後を。
天使と悪魔、もし本当にいるならどっちに会ってみたい? ブログネタ:天使と悪魔、もし本当にいるならどっちに会ってみたい? 参加中

私は悪魔派!


細かいことをまず先に述べる。

天使と悪魔という概念は、本来キリスト教のもの。聖母マリアに受胎告知をしたのが天使。悪魔は災いをもたらす存在。天国と地獄も、神の下に召されるか、地獄に堕ちて悪魔の業火に焼かれるか。かいつまむとそういう思想であると考える。ゆえに、キリスト教徒でもないものが天使や悪魔を語るなかれ、となる。

そんなうざいことは今は無視して、単純にどちらに会ってみたいかと、その理由について考えてみようと思う。

天使は神の僕に祝福をもたらす存在である。今風にいうと、癒し系キャラである。俗説となるが、天使が矢を放つと、当たったもの同士が恋におちる。作家、星新一のショートショートで天使を題材にしたものがあり、矢を放ちすぎてはちゃめちゃにしてしまった天使もいた。作品名は失念したが、決して天使を揶揄しているのではなく、星新一は、ユーモアを交え、コミカルにほほえましい天使を描いた。

天使は神を信じる全てのものに祝福をもたらす存在である。神とはすなわち、イエス・キリストのことである。といって、キリスト教徒であっても、本当に天使に会ったことのあるものは、ほぼ現実的にいないだろう。それでも、イエス・キリストを信仰する人々は、天使をも信仰の対象としている。これは仏教のおいても、類似の信仰対象が存在する。

祝福を与える存在は、各宗教とも様々な概念形体で語られるが、なぜか、悪魔や地獄は、それぞれの宗教に共通している気がしている。宗教にそんなに詳しくないものが簡単に口にしていいものではないかもしれないが、その少ない知識において、悪魔や地獄は同じ概念として存在している、と感じている。

悪魔とは、災いをもたらすもの。どこかの大統領が、自らを救世主だと信じこみ、ある国を邪悪な国だとうそぶいた。悪魔とは、意外に、異教徒とイコールなのではないかと、その時感じた。自分たちと同じ神を信じないものは、異端であり異教徒であり、災いをもたらすもの。すなわち悪魔である。

宗教学者に怒られるかもしれない。ただ、宗教に関わりのない一般人からすると、こんな考え方もありだと思ってしまう。主福をもたらす存在は、キリスト教の天使を代表するように、各宗教によって様々な概念、形体を持つ。だが、悪魔は、災いをもたらす存在として共通して存在する。知識が足りないから間違っているかもしれない。ただ、災いをもたらすものが各宗教で共通していることは、とても興味深いことである。

ならば、悪魔とやらに会ってみたいと思うのは自然の成り行きではなかろうか。この世には善と悪があり、善は悪、悪は善ともいう思想もある。それはさておき、個人的に会ってみたいのは、様々に別れる祝福をもたらすものより、なぜか同じ概念の悪魔の方が解りやすいから、是非会ってみたい。

「ファウスト」という作品において、メフィストはファウストにあの世で何でもいうことを聞くという条件で、好きなことをやらせてあげると契約を迫った。それがいいことなのか悪いことなのか、よく分からないが、凡人として、何とも魅力的な契約ではないか。ただし、調子に乗ると、結果はさんざんである。でも、邪悪な存在、悪魔はどれだけ邪悪なのか。

人間がよそ者を排除するために作り出した幻想かもしれない。

悪魔は本当に邪悪なのか。実際に会ってみないと分からないではないか。過去に、魔女だ悪魔だといって、正論を唱えているものを火あぶりにしてきた西洋の人々。天皇を神格化して、それに逆らうものを非国民として排除してきた大日本帝国。正論を唱えるもの、帝国主義に異議を唱えるもの。彼らがその当時は悪魔であった。ならば、時の権力者にたてつくものは全て悪魔なのだろうか。

善は悪、悪は善。

異質だから悪魔に仕立て上げるのは、自分の権力が脅かされる可能性があるからだろう。ならば、悪魔が正しい可能性もあるのである。善人面した悪魔もいることだろう。

天使は神を信じるものに祝福をもたらすもの。見方を変えると、信じないものは救われないといっているようなものだ。悪魔は人間の既得権益を守るために生み出された存在。ああ。こんなことを書くといろんな所から様々な批判が飛んできそうだが、会える機会があるなら、排他的な天使より、全てに共通している悪魔の方を選ぶ。

そして、悪魔に問いたい。あんた、ほんとに悪い存在?



天使と悪魔、もし本当にいるならどっちに会ってみたい?
  • 天使
  • 悪魔

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航空券あげると言われたらどこへ行く? ブログネタ:航空券あげると言われたらどこへ行く? 参加中

航空券がもらえるなら、絶対いきたいところがあります。

「アドリア海の真珠」といわれる世界遺産の町をご存じでしょうか。世界遺産になっているのは、その町の旧市街ですが、周りを城壁に守られた、中世から続く城塞都市です。城壁の中は、今でも人が住んでいます。大きなエリアではないですが、とても情緒にあふれたいいい町です。城壁は回廊になっていて、一周することもできます。一周するのに、普通に歩けば、たしか、数十分で回れたと記憶しています。

アドリア海の・・・というのは、イタリアにいもありますよね。「アドリア海の女王」。そう、ベネチアです。至る所に運河が流れ、ゴンドラで移動する、とてもとても、有名な観光地であり、歴史も古い町です。ただ、僕の行きたい町、「アドリア海の真珠」も、始まりは15世紀といわれる古い町です。

そろそろ名前を明かせ。

発音によって、いろんな言い方がされ、どれがカタカナ表記で正確なのかよく分かりませんが、僕は、ドブロブニクという表記で記憶しています。石造りの白い城壁と住宅の屋根のオレンジ。周りを囲むアドリア海の青。それらの調和が見事な、それはそれは美しい町です。

僕は、ベネチアにも惹かれますが、やはり有名すぎます。日本人も多いです。あまり団体客と遭遇したくないという気持もあります。恐らく、今では欧米への団体客は、中国や韓国の方が多いのではないかと想像しますが、僕が海外へ旅行していた頃は、とにかく、そこら中、日本人団体が闊歩していました。

各地の土産物屋での振る舞いが、店員さんさえ眉をひそめるほど、傍若無人さが目立ちました。同じ日本人として、非常に立場がなかった経験があります。日本人であることを隠して、わざと、英語でやりとりしていました。土産物屋は団体客が行くもの。でも、どうしても買い求めなくてはならないものがあって、免税店に行く必要があり、その時は、やむにやまれず、横柄に振る舞う団体客に紛れ、礼儀正しく振る舞いました。

「旅の恥はかき捨て」という言葉はかつては存分に発揮されていました。

話がそれています。

ドブロブニクとの出会いは、友人に見せられた一枚の写真でした。旧市街をを空撮したものだったと思います。あまりの美しさに、一目惚れしました。必ずいく、と心に決めました。

時は1990年。ベルリンの壁崩壊から一年経つか経たないかの時代です。海外勤務から帰国した僕は、赴任先と、バブリーな日本とのギャップになじめず、目標を見失いました。そこで自分探しの旅に出たのです。行き先はヨーロッパと決めていました。ありきたりの場所には行きたくないとも思いました。団体客と出会うのがいやだったからです。

自己を見つめ直す作業は、できるだけ、そういうことから無縁の場所の方がいい。そう思ったのです。そこで、冷戦終了直後の東欧に行こうと決めました。当時、まだ日本人があまり足を踏み入れていたかった地域です。もちろん、社会主義体制が崩壊した直後ですから、注意は必要でしたが、それでも、まったく違う世界が見たかった、というのが主な理由です。

東欧と決まったが、具体的にどこへ行くか、長期滞在を前提としていましたから、国と町の選択を慎重に行いました。その中で出会ったのが、ドブロブニクです。ここは絶対にいく。何かが僕を突き動かしました。当時、その町はユーゴスラビアの一都市でした。決めた。ここに2週間滞在して、今後どう生きるべきか、考えよう。

当時、東欧に向かうには、まだまだ不便でした。オーストリア、ウィーンを拠点にしないとなかなかうまく入国できない状況でした。入国査証がウィーンに集まる東欧諸国の大使館でしかとれなかったのです。だから、査証取得のためにどうしてもウィーンに行かざるを得なかった。冷戦時代の名残があった時代です。今は東欧もEUに加盟したりして、行き来が楽になってますけど、そういう大変な時期もあったのです。

ウィーンを拠点として、東欧諸国を複数訪れました。当時は1国だったチェコスロバキア。かつては、オーストリア傘下にあったハンガリー。そして、ユーゴスラビアです。

ユーゴスラビアという国名を記憶している方も年齢が限定されてきていると思います。冷戦時代、その地に強力な指導者がいて、ばらばらだった民族をまとめ、ユーゴスラビアという国を建国したのは第二次大戦後のことです。社会主義国といっても、周りの東欧諸国のように完全に当時のソ連の傘下にはいることを拒み、東欧諸国の中でも独特の体制を確立した珍しい国でした。チトーというその指導者が、民族ごとに別れる共和国を束ね、一国として存在し続けていました。僕は、それにも惹かれました。

僕が70日間に及ぶ旅行の中で、ほぼ、本当の目的地といえた、ドブロブニクは、当時、チトー大統領が亡くなり、冷戦が終結した直後の国情にありました。

同じユーゴスラビアでも、民族によって分かれている共和国間で、使用している文字が違うのです。そもそも、これでひとつの国であったことが未だ信じられないくらいです。文化も違います。さすが、チトーという人物は東欧の毛沢東といわれただけあって、カリスマ性にに富んだ人物だったようです。

ドブロブニクにいくには、陸路、海路、両方ありました。イタリア経由が主要ルートでした。でも、ぼくはあえて、国内ルートを選びました。人のやらないことをやってみようということです。まず、セルビア共和国のベオグラードにウィーンから鉄道で入りました。そこからドブロブニクには夜行バスです。

まず戸惑ったのは、文字がまったく読めないことでした。ロシア語に使われているキリル文字でした。ローマ字は理解できてもキリル文字の知識は全くなかったのです。よくそんなとこ行ったなあ。当時、東欧は英語がまだほとんど浸透していませんでした。ベオグラードもそうです。ただ、ホテルぐらいは英語が通じたので、宿だけはなんとか確保しました。駅の案内所でもらえる地図もキリル文字。いやはや、ついてから後悔しました。

ベオグラードからドブロブニクに向かうには、夜行バスのチケットを手に入れなければなりません。バスセンターの窓口はたくさんあり、全てキリル文字で書かれ、それぞれに長い行列ができていました。とにかく、一か八かどれかに並んで、「ドブロブニク!」と叫ぶしか手がありません。何回かはずれました。そのたび別の窓口に並び直しました。何度目かでやっとチケットを手に入れました。

あとは、たくさん並んでいるバスから、ドブロブニク行きのバスを探さないといけません。並んでいるバスの運転手に、片っ端から「ドブロブニク!」と叫びました。なんとかうなずく運転手のバスを見つけ、乗り込みました。

ちょうど、90年のワールドカップが開催されていた時期で、ユーゴスラビアは、決勝トーナメントに勝ち残っていました。かの、ストイコビッチ(ピクシー)がいた時代です。バスの中にラジオ中継が流され、バスの中は応援で大騒ぎでした。サッカーを愛する人たちの熱狂ぶりを初めて体感したひとときでした。

朝方、ふと目が覚めると、ある町に停車していました。サラエボでした。ああ、ここが、冬のオリンピックが開催されたところか。周りを高い山々に囲まれた、美しい町でした。その次に目がさめたのは、どこか分からない町でした。実はそこがドブロブニクだったと分かったのは、終点に降り立ったあとでした。えらいこっちゃ。乗り過ごした。バスターミナルの案内所は英語がまったく通じません。夏の保養地であることは何となく分かりましたが、目的地ではありません。

途方に暮れていると、中学生くらいと思われる男の子が近づいてきて、英語で話しかけてくれました。英語を勉強しているとのことでした。とりあえずここに宿を確保して、ドブロブニクにいけばいいじゃない。そんな話になり、男の子の家族と同じ民宿に滞在することになりました。

そこから2週間、ドブロブニクに通いました。だって、キャンセルできないと宿の主人が言うものだから。バスに乗って1時間。最初にドブロブニクにバスで向かったときのことは忘れません。バスは峠を越えていくのですが、ある瞬間から遠目にあの旧市街が飛び込んできたのです。周りは険しい山々。その中で、ドブロブニクの旧市街だけ、白とオレンジのコントラストを際だたせていました。「あ。真珠だ・・・」そう思いました。初めてバスの中から見たドブロブニクの遠景は、今でも鮮明に覚えています。

いろいろトラブルはあったものの、なんとか、2週間、ドブロブニクに通い続け、これから自分が進むべき道を自らに問いかけ、答えを見つけました。いま、その延長線上にはいませんが、自ら道を切り開く気構えだけは、当時のままです。ただし、「アドリア海の真珠」で過ごした2週間があったればこそ、今の僕がある。それは。間違いありません。

ベオグラードはセルビア共和国。サラエボはボスニア=ヘルツェゴビナ共和国。ドブロブニクはクロアチア共和国。それらはユーゴスラビアという、国家の中の国々でした。

僕の帰国直後、ユーゴスラビアに内戦が勃発しました。運が良かったというか、危ないところだったというか。下手をすれば、帰れなくなっていたところでした。「アドリア海の真珠」と唱われたドブロブニクも戦禍に巻き込まれました。旧市街の城壁も城壁内の建物も爆撃に遭いました。サラエボの悲劇は、僕の中で遠い昔になっていません。あの美しかったドブロブニクが、アドリア海にきらめく美しい旧市街が、がれきの山となったのです。心が痛みました。戦争って、どうして起こるんでしょう。どうして戦争は何もかも破壊してしまうのでしょう。

いろんな悲劇を経て、現在、旧ユーゴスラビアは、いくつかの独立した国に分かれています。ドブロブニクは、内戦終結後、修復され、世界遺産にも登録されました。時々テレビでその姿を見る機会があります。かの「アドリア海の真珠」は、かつての輝きを取り戻したように、一見思えます。でも、やはり、きれいになりすぎました。僕の見た旧市街は、中世の風情をとどめ、歴史の風格がありました。もちろん、修復したクロアチアの人々にとって、シンボル的なこの旧市街は、その存在の重要性に於いて変わることはないでしょう。だからこそ国家をあげて修復に当たったのです。

だから、もし、航空券がもらえるなら、今一度、ドブロブニクをこの目で確かめたいのです。内戦、紛争という悲劇をくぐり抜けて復活した旧市街を。
年下からタメ語使われる方? ブログネタ:年下からタメ語使われる方? 参加中

こんなことを書くと、またブーイングがくるかもしれない。

だが、こういう考え方の人間もいるのだ、違う視点を持っているものもいるのだと、理解していただきたい。

対人関係に年齢差は必要ない。あるのは親密度だけである。とかく、日本人は年齢で判断する傾向にある。まず、初対面から年齢を聞く。それで、自分の位置関係を把握して、丁寧語かタメ語かを決めているのだ。初対面の人間に向かって、「何歳ですか?」と尋ねること自体、世界基準でいうともの凄く失礼に当たることを日本人は理解していない。年齢は関係ない、と断言していい。

日本人は初対面からひどいことをいう。海外で生活したことのあるものは、同じノリで年齢を聞いて、違和感を感じたことはなかったろうか。恐らく相手は、大変失礼な奴だと思ったことだろう。そもそも、年齢だけで人の上下関係を構築することがおかしいのだ。

昔々、日本にも階級制度があった。恐らく弥生時代から存在していただろう。その階級は、農耕社会が形成されていく段階で、持てるものと持たざるものとが生まれたからだと個人的に考える。階級社会は、その後、形体は変わってもほぼ戦後まで継続された。日本人は深層心理において、必ず自己と照らし合わせて上下関係を構築していると考える。

戦後、GHQがアメリカ文化を乱入させ、憲法も変わり、自由という新たな価値観を植え付けた。ただ、日本人は、上下関係を未だ意識したままである。現在、もちろん、学校や職場での上下関係は存在するが、それ以外、一般社会に於いて表面上は上下関係は本来存在しない。ところが、日本人は過去に上下関係のはっきりしている伝統文化に染まっていた。階級社会のかわりに対人関係に於いて上下関係を判断する指標として、年齢を用いているのである。

ここまで突き詰めると暴論かもしれない。

だが、自らに問いかけていただきたい。丁寧語かタメ語かは年齢で判断していないだろうか。

先達という言葉がある。経験豊富故に、未熟なものを導く役割を主に果たしている。そういう存在だ。山岳信仰や、現在ではお遍路さんなどに、その名残をとどめている。そこに年齢における上下関係は存在しない。経験を積んだものが未熟なものを導く。それは、社会に於いても同じであると個人的に考える。

たとえば、会社の上司が年下だ。それが納得いかない。そういう方もいるだろう。だが、本当のところ、その年下の上司の方が経験を積み、自己に比べて勝っている場合があるかもしれないではないか。

極端な例で、異論もあろうかと思うが、ようするに、年齢だけで人の経験値を判断してはならないのである。より経験が豊富で仕事になれている年下を、年長者は上から目線で話をするのだ。こういうことはよくあることだ。年齢で推し量っているから、結果としてそうなってしまう。年齢を気にするのも、年を重ねている方が、言葉は適切ではないかもしれないが、偉そうにできると勘違いしている。

対人関係を始めるときに、まず年齢を聞くというのは、そういう先入観から生じるものだと考える。個人的には、年齢の上下に関係なく、親密度で丁寧語かタメ語かを使い分けている。仕事上のつきあいは、あくまでも仕事場でのつきあい。年齢に関係なく、経験に関係なく、全て丁寧語である。初対面の相手に対しては、年齢を無視して、いずれも丁寧語を用いる。相手は違和感を覚えるかもしれない。だが、当方としては、年齢を聞かれること自体、違和感を覚えるのだ。北アメリカ、特に合衆国などは、年齢に関係なく、同じ立場にいるものは全て対等に話をする。それはそれで文化として成熟してきているから違和感はない。

だからといって、それを日本の文化に歪曲して取り入れ、初対面からタメ語を用いるのは、あまりよろしくない。常に異文化を吸収してきた日本文化だが、昔の階級社会を年齢に置き換えているだけで何も変わっていないのである。

肝心なことを書くのを忘れていた。

個人的に年下からはタメ語を使われない。以前からブログでも紹介しているとおり、見た目が見た目だけに、冗談のひとつもいわない怖い人だと思われてしまうからだ。初対面からタメ語を使ってくるものなんて皆無である。第一印象が「怖い」から入られてしまうと、正直なかなか人間関係を構築するのが難しい。まあ、持って生まれたものだからあきらめるしかないのだが。

だからといって、年齢に関係なく、当方としてはコミュニケーションをとりつつ、相手の経験値を推し量り、敬うべきは敬い、違和感を覚えるときでも、遠ざけることをできるだけ避けながら、なんとか折り合いをつけようと試みる。

まあ、こんな人間もいるのだと思っていただければ本望である。




お酒を飲めないのは損だと思う? ブログネタ:お酒を飲めないのは損だと思う? 参加中

アルコールが一切飲めない。

哀しいことに、アルコールを分解する酵素がないのだ。社会に出ると、いろんな場面で、アルコールを介在して様々なコミュニケーションを図ることになる。それは若い頃から分かっていた。なので、時効ではあるが、高校1年の時からアルコール特訓なるものをしていた。これは、両親了解の元で行ったものである。何しろ、当時は、アルハラなどという言葉のかけらもなかった時代で、飲めない奴は人ではない的世間であったからにして、このまま飲めないままでは、人として扱ってもらえない、という危機感があったのだ。

いろいろ試してみた。ビール、カクテル、ウィスキー、日本酒。酒好きな方は、常々経験しているだろう。飲んだ翌日の苦痛を。飲み過ぎておう吐することもあるだろう。翌日猛烈な頭痛に悩まされもするだろう。それが、飲み始めた瞬間、発生するのだ。顔は赤くならずに青くなる。飲んだとたんに二日酔いになるのである。

これでもかなり飲むことができるように努力はしたつもりだ。あ。未成年であることは、この際、スルーしていただきたい。20歳を迎える頃にしっかり飲めるようになっていないと、コンパにも行けないではないか。

だが、どんなに努力しても、いっこうに飲めない。いつも飲み始めた瞬間から猛烈な頭痛に襲われる。それで我慢しながら飲んでいると、トイレに直行だ。ある時、失恋した腹いせに、ウィスキーをロックでがぶ飲みしたことがある。両親はあきれていたが、そんなもん知るか、失恋したんだ。だが、酔うどころか、気分が悪くなる一方で、最後はトイレに直行し、翌日は寝込んでしまった。土曜の夜だからできたことでもある。

こりゃだめだ。

あきらめたのは20歳を過ぎた頃。それまで何度も飲み会などに参加はしてきた。できるだけ飲めるように努力もした。でも、やはり、だめだった。訓練すれば強くなる。そういう人もいる。最初は弱いけど、だんだん強くなっていくもんだ。酒が飲めないなんて、なんてつまらねえ奴だ。まあ、まあ、そういわずに、お前がかわりに飲めよ。そうやってやり過ごすのが常となった。

その頃から社会問題化してきた、急性アルコール中毒。新人歓迎会で、ぶっ倒れるまで飲ませ、救急搬送される。そういうケースが多発した。それからだ、アルコールハラスメントいう言葉が生まれ、定着したのは。

アルコールを受け付けない体質は、決して珍しくない体質だと思う。訓練すれば飲めるようなものではない。そもそも分解酵素がないのだから、アルコールはこの体質の人間にとって、毒を飲んでいるようなものだ。

今ではアルハラを受けると、それ相応の対応をとってもらえる世の中になった。飲めるものが飲めないものに無理強いすることも少なくなった。やっと、分解酵素を持たない人間の存在が、認められたといってもいい。

それはそれで一安心というか、飲めないということが、人間性を否定されることに繋がらなくなった世の中を喜びたい。市民権を得たのだ。

ただ、飲めないことで、人生半分損をしているという発言も聞かれる。

よくよく考えてみると、そうかもしれない。

たとえば、ワイン。こり出すともの凄く奥が深い世界である。もし、アルコールを受け付ける体であるならば、きっと、はまっていた世界だと思う。それに、フランス料理や、イタリア料理などなど、アルコールを含めて味わう料理もたくさん存在する。

食前酒、前菜、メイン、デザート。それぞれの段階で、ワインを選択して食事と一緒に楽しむ。食事自体はもちろん美味なもので、それだけでも充分満足なのだが、これにワインが楽しめたら、もっと満足できるのだろうと思うと、やはり、少し寂しくなる。それに、個人的にはチーズが大好きなのだ。チーズとワイン。絶妙の組み合わせだ、と思う。経験したことがないから思うにとどまるが、きっとすばらしい世界だと想像する。

食の文化に、アルコールは欠かせない。これは動かしがたい事実である。日本を含め、各国の食文化を楽しむためには、やはりアルコールが必要なのである。そういう意味では、食事を本当に楽しめないこの体質が、悔やまれてならない。人生の半分を損しているという言葉は、まさにその通りだと思う。

人生はすでに折り返し地点を過ぎた。しかし、アルコールが飲めないことで、その半分は、残念なことに、楽しめていないのである。

ものの見方にも寄るが。アルコールが元でいろんな間違いが発生するような人生は、送ってこなかった。それをプラスに考えよう。

そういいながら、ワインを飲みながらチーズが食べたい。うらやましいぞ。




歴史をよく知る皆様、特に今回は、思いっきりブーイングだったのだろうと思います。でも、大河ドラマは、あくまでも史実に基づいたフィクションです。

とくに、脚本家の田渕先生が自ら書き下ろした原作です。大きな史実を縦軸に、そこに浅井三姉妹、特に江の視点でドラマを進行していく以上、あらゆる歴史的転機に江が絡んでいくことは、これからもたくさん出てくるでしょう。少なくとも、江が、実際に史実の転機に大きく関わりを持つようになるまでは、数多くのフィクションが織り交ぜられることでしょう。史実という表舞台に登場してくる江がどのような人生を送ってきたか。今はその準備段階だと理解すると溜飲も下がるというものです。

江のたどった道のりは外さず、そこに歴史の大きな流れをしっかり残して、江という女性の成長を描いていこうとしている今回の大河ドラマ。主役の女優さんに関しては、いろいろと批評されているようですが、周りを固める豪華俳優陣がこのドラマを通じて彼女を成長させていかなくてはなりません。

そうそうたる脇役陣。先達に主役がインスパイアされないと、今回の大河はこけることになります。1年を通して、主役の女優さんがどのように女優として成長していけるか、これからの興味は、そこに尽きると思います。

それだけのプレッシャーのあるオファーを受けた彼女は、ただならぬ信念を持って望んでいるはずです。原作の田渕先生も、乗り越えられるから、主役に抜擢したのだと思います。あの女優さんは、大ヒットしたドラマ、映画のイメージから脱却をはかっている最中です。あのイメージを払拭できなければ、彼女の成長はないと、考えます。

今回、その片鱗を伺わせる場面がありました。自らとらわれることで周りを助けようとする。しかし、それはかなわなかった。でも、野武士相手に、敢然と立ち向かった。このシーンは、お市の方の血を受け継ぐ姫として、凜とした立ち振る舞いを演じきりました。

個人的には、もうすぐお市の方がいなくなるのが寂しいです。

これからは、語りとしてのご活躍を期待しています。

異論はあるかと思いますが、今回のベスト・サプライズ配役は、お市の方です。

疲れは体のどこにでる? ブログネタ:疲れは体のどこにでる? 参加中

現在、僕の体は健康とはいえません。原因は様々なことが騰げられますが、体調という言葉で表すと、最低といってもいいかもしれません。体の疲れはどこにくると問われれば、今は、全身ということになるでしょう。

それで終わってしまうと、記事が成り立たないので、そうなる前の自分の体について書いてみようと思います。

元々肩こりがひどい人でした。体に疲労がたまると、肩がこってきます。若い頃から、肩こりには悩まされてきました。特に仕事が忙しいとか、そういうときには、必ず肩に来ました。それと、腰から背筋にかけて。これは、恐らく体のゆがみから生じるものだと思われます。WiiFitを始めてから、体の重心が右に傾いていることが判明しました。重心が左右均等ではないのです。これは、学生時代に教材で詰まった重たい鞄を左に担いでいたことに原因があるように思います。

さらに、疲労が蓄積してくると、抜けといわれて拒み続けている4本の親知らずが痛み出します。何度もひどい目に遭ってきました。あと、交通事故でむち打ちを経験しました。それ以来、疲れがたまると肩胛骨の間が非常に辛くなるようになりました。

あれ、体調がいいときも結構いろいろあったんですね。

人間誰しも、背骨はまっすぐではないといいます。必ずゆがんでいるそうです。ゆがみの原因は、日頃の姿勢や、同じ姿勢を長時間続けることで生じるのだそうです。この知識は、整骨院の先生からいただいたものです。

体の疲れというものは、もちろん、肉体的に酷使したことで生じることもありますが、精神的に消耗したときも体は疲れを感じます。

筋肉の疲労は、大きく分けると2つに分かれるそうです。ひとつは、肉体的疲労。もう一つは、精神的疲労。プロがさわると、その違いが分かるそうです。この疲労は、背骨や首のゆがみから生じることも多いそうです。それに、姿勢。皆さん、たいてい、座っているとき足を組みますよね。これ、背骨と首、骨盤に相当負担をかけているそうです。長時間続けると、骨盤から背骨、首にかけて負荷がかかり、ゆがんでくるのだそうです。そのゆがみが、疲れとなっていろんな所に生じてくる。

疲れたと感じるときは、肉体か、精神、つまり心か、どちらかに負荷がかかっていると考えていいでしょう。

僕も以前足を組むのが当たり前の生活をしていました。荷物を決まった側、僕の場合は、左に担ぐ方が多かったので、右に重心がずれてしまった。だから、全体的に右に負荷がかかっているのです。腰痛も右がひどいです。背骨のゆがみは左右にとどまらず、前後にも現れます。姿勢が悪いといわゆる猫背になり、最終的に腰の曲がったお年寄りになってしまう。

僕の首は、恐らく、交通事故のむち打ちが原因でしょうが、ストレートネックと呼ばれる状態です。本来首の骨は横から見てある程度湾曲していなくてはならないそうですが、僕の首は湾曲がなく、まっすぐなのです。これは異常な状態なのだそうです。それが体全体のゆがみの根元とも整骨院の先生はおっしゃいます。

PCに向かっているとき、どんな姿勢でいるでしょうか。そう考えると、疲れの原因も分かってくると思います。長時間同じ姿勢でいることが、ゆがみを誘発し、疲れとなって体に表れてくる。特に主な仕事や勉強、娯楽でPCに長時間接する機会の多い方は、骨格がゆがんでいるといってもいいでしょう。あと画面を長時間眺めることで、精神にも負荷をかけていることになるそうです。自律神経といってもいいかもしれません。自律神経が乱れると、体のいろんなところが不調を訴えます。

つまり、ゆがんだ姿勢を長時間続け、なおかつ、デジタル機器に接していると、いろんな所に疲れがたまってくるのです。

といいつつ、こうやって毎日ブログを更新している僕は、分かっていながら体に悪いことを続けている、悪い奴です。

妙に最近疲れが抜けない。眠れない。眠りが浅い。眠った気がしない。それは、体や心のどこかに負荷をかけ続けている可能性が高いです。疲れをどこに感じるかではなく、疲れの原因を究明することが重要ではないかと考えます。

そんなご高説を述べても、ネットの世界に足を突っ込んでいる人間に説得力はないですよね。でも、体調を完全に崩してしまう前に、対処の方法はありますから、日頃、足を組む時間が長いとか、長時間PCに向かっているとか、心当たりのある方は、いちど、何かしらの矯正手段を執った方がいいと、思います。

経験者の言葉は重いですよ。



時間、愛情、お金、ほしいのはどれ? ブログネタ:時間、愛情、お金、ほしいのはどれ? 参加中

私は愛情派!


まるで性格診断、もしくは、心理学のような、三択です。選択したものによって、その人の傾向が丸わかりとか、テレビでよくやってます。

人間は本能を持っています。物欲、食欲、性欲。これは、ないとはいわせません、ないと思っていても意識下で必ず認識しているはずです。そういう意味で言えば、この三択は、全部といいたいところです。

ただ、三択なので、そういうわけにもいきません。

今の自分に必要なのは、三つのうちどれなのか、考えてみた結果が愛情でした。繰り返しますが、本音は全部ほしいのです。人間欲張りですから(苦笑)。

なぜ愛情を選んだか、本当は全部ほしいのに、あえて選びました。手法は、また消去法でいきましょう。最初に消えるのはどれか。時間です。現状からすると、時間はあるようでないような複雑なところです。いくらでも自由になる時間が24時間あります。家に独りで住んでいますから、何時に起きようと、何をしようと、何時に寝ようと、どこへ行こうと、誰も何も言いません。指摘する存在がいないといってもいいでしょう。一方で、時間は自身に焦りをもたらします。24時間という時間を無為無策に送る、図太さがないのです。果報は寝て待て。そんな戦国武将のようなこともできません。24時間与えられているのにも関わらず、今はそれが大きな負担となっています。時間は有り余っているけれども、持て余している。時間がほしいとおっしゃる方には、何ともうらやましいように聞こえるでしょう。仕事に追われ、時間が欲しいとおっしゃる方も当然いるでしょう。でも、本来、時間は作ろうと思えば作れるものです。どんなに忙しくでも、意識して作ることは可能だと自身の経験から考えます。

仕事を離れ、たとえば、24時間、一年間自由に使わせてやる。と、突然いわれて、ありがとうございます。では、自由に使わせていただきます、と。いえるでしょうか。好きなことだけ24時間、365日やり続ける。それは、それでひとつの方法です。仕事以外にやることがない。もし、そんな方がいらっしゃいましたら、翌日から恐らく、途方に暮れるのではないでしょうか。時間の有効活用は、忙しい忙しくないに関わらず、自分でやりくりするものだと理解しています。

個人的には、漠たる目標を見据えて、日々できるだけ自堕落にならないように、生活をしています。まあ、自由に使える時間は無尽蔵にあるわけです。でも、その無尽蔵の時間を、このごろは苦痛に感じます。漠たる目標を見据えるために、向き合う山場が近づいています。毎日近づいています。まるで真綿で首を絞められ様な感覚です。だから、時間は無尽蔵にあっても、今は必要ありません。できれば、あっという間に過ぎていってほしいと思っているくらいです。

次に消えるのはお金です。物欲を満たすためのひとつの手段です。自身の経済状況を考えると、お金はあるだけあるのがいいに決まっています。誰でもそうでしょう?富裕層といわれる方々も、恐らく更にお金を求めて投機などに入れ込んだりしていますよね。元来、富むべきものは、富まざるものに何かしらの、還元をする義務があると、個人的には考えます。宗教に関わらず、人間は、たとえば、食料など、持っているものが、持ってないものに分け与える生き物でした。縄文時代に戦の痕跡が、今のところ認められないのは、共同体、集落全体として、限られた自然の恵みを、みんなで分け合って生きていこうとしていたからです。

話が大きくなりすぎた。

現在、経済状況は、逼迫しています。いわゆる、「あっぷあっぷ」「自転車操業」のようなものです。入ってきたかと思ったらあっという間に消えていってしまう。資本主義のなかで、利益を追求する世界ですから、手元にお金が残らないのは、資金が回っている、と、楽観的な考え方もできますが、右から左へ、左から右へ。目の前をお金が通り過ぎていく様は、あまり、気分のいいものではありません。資本主義経済というものは、突き詰めれば、入るところにお金は入って、入らないところにはお金は入らない、そういう仕組みなのですよ。異論はあるかもしれませんが、個人的にはそう考えます。

お金は欲しいのに、なぜ選択しなかったのか。お金は必要ですが、欲しいものではないからです。この違い、理解いただけるでしょうか。生きていけるだけあればいい、そういうことです。だから、欲しくて欲しくてたまらない訳じゃない。三択中での位置づけは、一番になり得ません。

最後に残る愛情。愛情というのはとても抽象的な言葉です。愛情は、その受け手になること、与える側になること、その両方ができるものです。愛情を向ける対象も、個人によって大きな差が出ます。お金に愛情を注ぐ方もいらっしゃるでしょう。時間に愛情を捧げる方もいらっしゃるでしょう。貰う側も、与える側も、多種多様です。そんな多様な愛情を選択したのは、個人的な生活環境が理由です。周りの支え、支援がなければ、大袈裟にいうと生きていけないのが現状です。人間は1人で生きているわけではなく、まして、1人で生まれてきたわけでもない。自分の人生は自分1人の力で切り開き、築きあげてきたものだ、と自負する方もおられると思います。あえて、そうやって成功した方に問いたい。本当に自分の力だけで生きてこられたのですか?違うと思います。必ず、目に見える形ではなくても、誰かに支えられて生きているはずです。人間とはそういう生き物です。

そこで、今の自分がもっとも必要とするものは、現状を受け入れ、向き合っている自分自身を身近で見守ってくれる存在です。今の自分を支えてくださっている方々は、おかげさまで、数多くいらっしゃいます。このブログの読者の皆様も、もちろんそうです。ただ、やはり、自宅では1人なのです。孤独を感じながら、まるで禅問答のように1人で向き合うのも限界があります。助けてくれといっているわけではありません。少なくとも、現状打破には自分の力がまず必要です。それがなければ、依存してばかりでは、打破できません。そうではなく、ちゃんと導いてあげるから的な愛情ではなく、1人でやんな、その代わりこけそうなときは支えてやるから。という愛情です。まるで、子育てみたいですね。

肉親であっても、なかなか、難しい支え方です。肉親の方が、余計にしんどいかもしれませんね。もう一つの視点、それが、今の自分には必要なのです。1人客観的立場に立てる存在が。それが愛情を伴っているなら、それ以上欲するものはありません。自ら求めて欲するのは、躊躇してしまいます。難しいことをよく理解しているからです。でも、今、一番何が必要かと問われるなら、愛情と答えるほかにありません。

もの凄く高度な愛情を求めているのは、分かっています。なかなか理解してもらえないことも分かっています。自分1人の力で現状を打破できるなら、すでにできているはずです。繰り返しますが、独力での現状打破は限界があります。周りの支えも、当然感謝しています。でも、いかんせん実質的な距離に限界を感じます。ありがたいことだと感謝していますが、身近に支えが必要なのです。

それをひしひしと感じながら、山場を迎えようとしている現在、身近な愛情を求めています。感情論で訴えるなら、「誰かにそばにいて欲しい」です。

どうやら愚痴が過ぎたようです。これくらいにしておきましょう。

最後に、やはり人間ですから、欲しいものは全部欲しいのです。何と己の罪深きことよ。

なんてね。



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