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「アドリア海の真珠」といわれる世界遺産の町をご存じでしょうか。世界遺産になっているのは、その町の旧市街ですが、周りを城壁に守られた、中世から続く城塞都市です。城壁の中は、今でも人が住んでいます。大きなエリアではないですが、とても情緒にあふれたいいい町です。城壁は回廊になっていて、一周することもできます。一周するのに、普通に歩けば、たしか、数十分で回れたと記憶しています。
アドリア海の・・・というのは、イタリアにいもありますよね。「アドリア海の女王」。そう、ベネチアです。至る所に運河が流れ、ゴンドラで移動する、とてもとても、有名な観光地であり、歴史も古い町です。ただ、僕の行きたい町、「アドリア海の真珠」も、始まりは15世紀といわれる古い町です。
そろそろ名前を明かせ。
発音によって、いろんな言い方がされ、どれがカタカナ表記で正確なのかよく分かりませんが、僕は、ドブロブニクという表記で記憶しています。石造りの白い城壁と住宅の屋根のオレンジ。周りを囲むアドリア海の青。それらの調和が見事な、それはそれは美しい町です。
僕は、ベネチアにも惹かれますが、やはり有名すぎます。日本人も多いです。あまり団体客と遭遇したくないという気持もあります。恐らく、今では欧米への団体客は、中国や韓国の方が多いのではないかと想像しますが、僕が海外へ旅行していた頃は、とにかく、そこら中、日本人団体が闊歩していました。
各地の土産物屋での振る舞いが、店員さんさえ眉をひそめるほど、傍若無人さが目立ちました。同じ日本人として、非常に立場がなかった経験があります。日本人であることを隠して、わざと、英語でやりとりしていました。土産物屋は団体客が行くもの。でも、どうしても買い求めなくてはならないものがあって、免税店に行く必要があり、その時は、やむにやまれず、横柄に振る舞う団体客に紛れ、礼儀正しく振る舞いました。
「旅の恥はかき捨て」という言葉はかつては存分に発揮されていました。
話がそれています。
ドブロブニクとの出会いは、友人に見せられた一枚の写真でした。旧市街をを空撮したものだったと思います。あまりの美しさに、一目惚れしました。必ずいく、と心に決めました。
時は1990年。ベルリンの壁崩壊から一年経つか経たないかの時代です。海外勤務から帰国した僕は、赴任先と、バブリーな日本とのギャップになじめず、目標を見失いました。そこで自分探しの旅に出たのです。行き先はヨーロッパと決めていました。ありきたりの場所には行きたくないとも思いました。団体客と出会うのがいやだったからです。
自己を見つめ直す作業は、できるだけ、そういうことから無縁の場所の方がいい。そう思ったのです。そこで、冷戦終了直後の東欧に行こうと決めました。当時、まだ日本人があまり足を踏み入れていたかった地域です。もちろん、社会主義体制が崩壊した直後ですから、注意は必要でしたが、それでも、まったく違う世界が見たかった、というのが主な理由です。
東欧と決まったが、具体的にどこへ行くか、長期滞在を前提としていましたから、国と町の選択を慎重に行いました。その中で出会ったのが、ドブロブニクです。ここは絶対にいく。何かが僕を突き動かしました。当時、その町はユーゴスラビアの一都市でした。決めた。ここに2週間滞在して、今後どう生きるべきか、考えよう。
当時、東欧に向かうには、まだまだ不便でした。オーストリア、ウィーンを拠点にしないとなかなかうまく入国できない状況でした。入国査証がウィーンに集まる東欧諸国の大使館でしかとれなかったのです。だから、査証取得のためにどうしてもウィーンに行かざるを得なかった。冷戦時代の名残があった時代です。今は東欧もEUに加盟したりして、行き来が楽になってますけど、そういう大変な時期もあったのです。
ウィーンを拠点として、東欧諸国を複数訪れました。当時は1国だったチェコスロバキア。かつては、オーストリア傘下にあったハンガリー。そして、ユーゴスラビアです。
ユーゴスラビアという国名を記憶している方も年齢が限定されてきていると思います。冷戦時代、その地に強力な指導者がいて、ばらばらだった民族をまとめ、ユーゴスラビアという国を建国したのは第二次大戦後のことです。社会主義国といっても、周りの東欧諸国のように完全に当時のソ連の傘下にはいることを拒み、東欧諸国の中でも独特の体制を確立した珍しい国でした。チトーというその指導者が、民族ごとに別れる共和国を束ね、一国として存在し続けていました。僕は、それにも惹かれました。
僕が70日間に及ぶ旅行の中で、ほぼ、本当の目的地といえた、ドブロブニクは、当時、チトー大統領が亡くなり、冷戦が終結した直後の国情にありました。
同じユーゴスラビアでも、民族によって分かれている共和国間で、使用している文字が違うのです。そもそも、これでひとつの国であったことが未だ信じられないくらいです。文化も違います。さすが、チトーという人物は東欧の毛沢東といわれただけあって、カリスマ性にに富んだ人物だったようです。
ドブロブニクにいくには、陸路、海路、両方ありました。イタリア経由が主要ルートでした。でも、ぼくはあえて、国内ルートを選びました。人のやらないことをやってみようということです。まず、セルビア共和国のベオグラードにウィーンから鉄道で入りました。そこからドブロブニクには夜行バスです。
まず戸惑ったのは、文字がまったく読めないことでした。ロシア語に使われているキリル文字でした。ローマ字は理解できてもキリル文字の知識は全くなかったのです。よくそんなとこ行ったなあ。当時、東欧は英語がまだほとんど浸透していませんでした。ベオグラードもそうです。ただ、ホテルぐらいは英語が通じたので、宿だけはなんとか確保しました。駅の案内所でもらえる地図もキリル文字。いやはや、ついてから後悔しました。
ベオグラードからドブロブニクに向かうには、夜行バスのチケットを手に入れなければなりません。バスセンターの窓口はたくさんあり、全てキリル文字で書かれ、それぞれに長い行列ができていました。とにかく、一か八かどれかに並んで、「ドブロブニク!」と叫ぶしか手がありません。何回かはずれました。そのたび別の窓口に並び直しました。何度目かでやっとチケットを手に入れました。
あとは、たくさん並んでいるバスから、ドブロブニク行きのバスを探さないといけません。並んでいるバスの運転手に、片っ端から「ドブロブニク!」と叫びました。なんとかうなずく運転手のバスを見つけ、乗り込みました。
ちょうど、90年のワールドカップが開催されていた時期で、ユーゴスラビアは、決勝トーナメントに勝ち残っていました。かの、ストイコビッチ(ピクシー)がいた時代です。バスの中にラジオ中継が流され、バスの中は応援で大騒ぎでした。サッカーを愛する人たちの熱狂ぶりを初めて体感したひとときでした。
朝方、ふと目が覚めると、ある町に停車していました。サラエボでした。ああ、ここが、冬のオリンピックが開催されたところか。周りを高い山々に囲まれた、美しい町でした。その次に目がさめたのは、どこか分からない町でした。実はそこがドブロブニクだったと分かったのは、終点に降り立ったあとでした。えらいこっちゃ。乗り過ごした。バスターミナルの案内所は英語がまったく通じません。夏の保養地であることは何となく分かりましたが、目的地ではありません。
途方に暮れていると、中学生くらいと思われる男の子が近づいてきて、英語で話しかけてくれました。英語を勉強しているとのことでした。とりあえずここに宿を確保して、ドブロブニクにいけばいいじゃない。そんな話になり、男の子の家族と同じ民宿に滞在することになりました。
そこから2週間、ドブロブニクに通いました。だって、キャンセルできないと宿の主人が言うものだから。バスに乗って1時間。最初にドブロブニクにバスで向かったときのことは忘れません。バスは峠を越えていくのですが、ある瞬間から遠目にあの旧市街が飛び込んできたのです。周りは険しい山々。その中で、ドブロブニクの旧市街だけ、白とオレンジのコントラストを際だたせていました。「あ。真珠だ・・・」そう思いました。初めてバスの中から見たドブロブニクの遠景は、今でも鮮明に覚えています。
いろいろトラブルはあったものの、なんとか、2週間、ドブロブニクに通い続け、これから自分が進むべき道を自らに問いかけ、答えを見つけました。いま、その延長線上にはいませんが、自ら道を切り開く気構えだけは、当時のままです。ただし、「アドリア海の真珠」で過ごした2週間があったればこそ、今の僕がある。それは。間違いありません。
ベオグラードはセルビア共和国。サラエボはボスニア=ヘルツェゴビナ共和国。ドブロブニクはクロアチア共和国。それらはユーゴスラビアという、国家の中の国々でした。
僕の帰国直後、ユーゴスラビアに内戦が勃発しました。運が良かったというか、危ないところだったというか。下手をすれば、帰れなくなっていたところでした。「アドリア海の真珠」と唱われたドブロブニクも戦禍に巻き込まれました。旧市街の城壁も城壁内の建物も爆撃に遭いました。サラエボの悲劇は、僕の中で遠い昔になっていません。あの美しかったドブロブニクが、アドリア海にきらめく美しい旧市街が、がれきの山となったのです。心が痛みました。戦争って、どうして起こるんでしょう。どうして戦争は何もかも破壊してしまうのでしょう。
いろんな悲劇を経て、現在、旧ユーゴスラビアは、いくつかの独立した国に分かれています。ドブロブニクは、内戦終結後、修復され、世界遺産にも登録されました。時々テレビでその姿を見る機会があります。かの「アドリア海の真珠」は、かつての輝きを取り戻したように、一見思えます。でも、やはり、きれいになりすぎました。僕の見た旧市街は、中世の風情をとどめ、歴史の風格がありました。もちろん、修復したクロアチアの人々にとって、シンボル的なこの旧市街は、その存在の重要性に於いて変わることはないでしょう。だからこそ国家をあげて修復に当たったのです。
だから、もし、航空券がもらえるなら、今一度、ドブロブニクをこの目で確かめたいのです。内戦、紛争という悲劇をくぐり抜けて復活した旧市街を。