以前この場で紹介したことがある。
わたしは、親のどちらにも似ていない。兄弟とも似ていない。家族構成4人の中で、共通点がどこにもない、そんな不思議な、そして、複雑な思いが昔からあった。
もちろん、姿形のことである。
繰り返すことになるが、父親と共にいると母親に似ていると声をかけられ、母親といると父親に似ていると声がかかる。幼少時はこのことが不思議だった。両親がそろっていると似ている、似ていないの話題が出なかった。
似ていないということに、どこか不安を常に持ち続けていたのかもしれない。
これまでの人生、国外を含め、様々な場所で生活をしてきた。幼少時、自分が安心していられる場所は、家族のいるところ、であるにも関わらず、どちらにも、兄弟とも似ていないと周囲からいわれ、自分の居場所はどこなのだ、と漠然と思ったりもしていた。人々の暮らしの中で、心のよりどころといってもいい、ふるさと。自分が生まれ育った場所。
わたしは、生まれた場所から2年で移動を余儀なくされた。父親の転勤が理由である。その後、数年おきに住む場所が変わっていった。今住んでいる場所は、生まれた場所、育ってきた場所とは、何の関係のない場所である。数年おきに生活の場所を変えるということは、数年おきに生活環境が変わるということだ。幼少時には、大袈裟でも何でもなく、まさに自分の意志とは関係なく異文化に突然放り込まれるように感じたものだ。
周りの環境が変化するごとに、そこに適応しようとする意志が働く。そうでないと周りとうまくやっていけないからである。移動するたび、違う価値観が現れる。それに適応しても、そこに生まれ育った人たちに、どうしても違和感が生じてしまう。彼らにとって当たり前のことが、わたしにとっては当たり前ではないのだ。正しいと思っていることが、まったく違うことにすり替えられる。方言や習慣、伝統に根ざした文化など、移動するたびに、適応することを求められる。
人間の暮らしの中で、最初の、ごく自然の心のよりどころとなる場所は、家族であり、家庭である、と思う。その家庭内でさえ、我が家は父親の価値観を母親が否定し続けた。家庭内ダブルスタンダードである。幼少の頃、そこしかない、ともいえる家庭内で異なる価値観が存在した。子供はどうしたらいいのだ。
世の中には、生まれ育った場所から一度も移動しない人たちもいる。それをふるさとと呼ぶのであれば、わたしには、ふるさとがないといってもいい。ふるさとが心のよりどころになる。たとえ、いずれその場を離れることになっても、戻ってくれば、帰ってきたという気持になれる。生まれた場所で育ち、やがて配偶者を得て、子供が生まれ、またその子供たちが同じ場所で暮らし、配偶者を得て子をもうける。人間の営みとして、長い間引き継がれているごく自然の出来事である。
たとえ、住む場所が変わっても、家庭内で価値観が揺るがなければ、子供にとって、それが心のよりどころとなる。思想、文化、風習、民族や宗教など、同じ価値観を共有するところから、心のよりどころは生まれるというのなら、我が家には違う価値観を持つ者同士が家庭を持ち、その価値観を融合させるのではなく、対立する形で存在していた。
そのうえ、姿形すら家族と共有できないわたしは、家庭内外で常に違和感を持ち続けていたのだろう。
今や家庭内ダブルスタンダードは、ごくごく当たり前のことになり、家族として維持することが困難になり、子供は親と引き離される。幼い彼らは、何を基準として生きていけばいいのだろう。家庭内で傷つけ合うのが日常なら、子供は、家庭外で傷つけることを日常と考えても、誰も責められない。ダブルスタンダードの両親は、互いの価値観の融合、尊重を放棄し、子供の価値観を家庭外で共有させようとする。その結果、自分の子供にも違和感を覚えてしまう。みんなばらばらだ。
せめて、家庭内だけでも、互いの価値観を認め合い、尊重して融合させることができるなら、子供は迷わず、不安になることも少なくなるのではないか。近頃強く感じることである。
わたしの父親は、鹿児島で生まれ育ち、就職のため大阪へ出てきた。母親は台湾で生まれ育ち、思春期の頃、終戦を迎え、両親の実家がある京都の山奥、京都三大祭りのひとつ、時代祭の先頭を代々担ってきた地域に戻ってきた。明治維新の官軍。勝てば官軍である。
父方の家系は鎌倉時代から続く島津家と長い間関わりを持ってきた。いわば、心のよりどころを持つ人物である。片や母親の生まれた育った場所は、今や日本ではない。
本来京都と薩摩といえば、長く深い関わりを持っているはずであるが、父親の実家は、明治維新のあと決別した、大久保と西郷の、西郷を担ぎ上げた勢力に属していた。西南戦争の負け組。
文化というものは、長く続けば続くほど異なるものを受け入れがたくなる。両親の世代では、まだまだ「敵同士」という考えたかが根強く残っていた。母親は押しつけられる伝統に抗い、家出に近い形で実家を出た。なのに、巡り巡って、双方相容れない家系同士所帯を持つことになった。
それぞれの家の話を小さい頃から聞いていると、何が何だか分からなくなってしまったのである。母親は父親との結婚を本意ではなかったと、繰り返した。恐らくそれは今も変わっていない。結果、未だに両家は相容れないままである。
長くなった。
先日、ある紀行番組で桜島と周りに住む人たちが紹介されていた。わたしは両親とまったく似ていない。それが心に安定をもたらさないと、常々思っていた。ところが、桜島の麓に住み続けている住民が映し出されたとき、その男性のまゆ毛がわたしとまったく同じ形をしていることに気がついたのである。わたしのまゆ毛は父親とも違っている。しかし、父方の家系は桜島に近い大隅半島に代々暮らしていた。
わたしのまゆ毛は、父親とは異なるが、家系が根付いた地域のまゆ毛だったのである。目から鱗が落ちた。
ルーツのもやもやしていたわたしが、初めて、その一端を理解した瞬間だった。少なくとも、片方の血は確実に受け継いでいることがやっと、腑に落ちたのである。
他人のまゆ毛に自らのルーツを見いだすとは。
遺伝とは、複雑怪奇な出来事である。
わたしは、親のどちらにも似ていない。兄弟とも似ていない。家族構成4人の中で、共通点がどこにもない、そんな不思議な、そして、複雑な思いが昔からあった。
もちろん、姿形のことである。
繰り返すことになるが、父親と共にいると母親に似ていると声をかけられ、母親といると父親に似ていると声がかかる。幼少時はこのことが不思議だった。両親がそろっていると似ている、似ていないの話題が出なかった。
似ていないということに、どこか不安を常に持ち続けていたのかもしれない。
これまでの人生、国外を含め、様々な場所で生活をしてきた。幼少時、自分が安心していられる場所は、家族のいるところ、であるにも関わらず、どちらにも、兄弟とも似ていないと周囲からいわれ、自分の居場所はどこなのだ、と漠然と思ったりもしていた。人々の暮らしの中で、心のよりどころといってもいい、ふるさと。自分が生まれ育った場所。
わたしは、生まれた場所から2年で移動を余儀なくされた。父親の転勤が理由である。その後、数年おきに住む場所が変わっていった。今住んでいる場所は、生まれた場所、育ってきた場所とは、何の関係のない場所である。数年おきに生活の場所を変えるということは、数年おきに生活環境が変わるということだ。幼少時には、大袈裟でも何でもなく、まさに自分の意志とは関係なく異文化に突然放り込まれるように感じたものだ。
周りの環境が変化するごとに、そこに適応しようとする意志が働く。そうでないと周りとうまくやっていけないからである。移動するたび、違う価値観が現れる。それに適応しても、そこに生まれ育った人たちに、どうしても違和感が生じてしまう。彼らにとって当たり前のことが、わたしにとっては当たり前ではないのだ。正しいと思っていることが、まったく違うことにすり替えられる。方言や習慣、伝統に根ざした文化など、移動するたびに、適応することを求められる。
人間の暮らしの中で、最初の、ごく自然の心のよりどころとなる場所は、家族であり、家庭である、と思う。その家庭内でさえ、我が家は父親の価値観を母親が否定し続けた。家庭内ダブルスタンダードである。幼少の頃、そこしかない、ともいえる家庭内で異なる価値観が存在した。子供はどうしたらいいのだ。
世の中には、生まれ育った場所から一度も移動しない人たちもいる。それをふるさとと呼ぶのであれば、わたしには、ふるさとがないといってもいい。ふるさとが心のよりどころになる。たとえ、いずれその場を離れることになっても、戻ってくれば、帰ってきたという気持になれる。生まれた場所で育ち、やがて配偶者を得て、子供が生まれ、またその子供たちが同じ場所で暮らし、配偶者を得て子をもうける。人間の営みとして、長い間引き継がれているごく自然の出来事である。
たとえ、住む場所が変わっても、家庭内で価値観が揺るがなければ、子供にとって、それが心のよりどころとなる。思想、文化、風習、民族や宗教など、同じ価値観を共有するところから、心のよりどころは生まれるというのなら、我が家には違う価値観を持つ者同士が家庭を持ち、その価値観を融合させるのではなく、対立する形で存在していた。
そのうえ、姿形すら家族と共有できないわたしは、家庭内外で常に違和感を持ち続けていたのだろう。
今や家庭内ダブルスタンダードは、ごくごく当たり前のことになり、家族として維持することが困難になり、子供は親と引き離される。幼い彼らは、何を基準として生きていけばいいのだろう。家庭内で傷つけ合うのが日常なら、子供は、家庭外で傷つけることを日常と考えても、誰も責められない。ダブルスタンダードの両親は、互いの価値観の融合、尊重を放棄し、子供の価値観を家庭外で共有させようとする。その結果、自分の子供にも違和感を覚えてしまう。みんなばらばらだ。
せめて、家庭内だけでも、互いの価値観を認め合い、尊重して融合させることができるなら、子供は迷わず、不安になることも少なくなるのではないか。近頃強く感じることである。
わたしの父親は、鹿児島で生まれ育ち、就職のため大阪へ出てきた。母親は台湾で生まれ育ち、思春期の頃、終戦を迎え、両親の実家がある京都の山奥、京都三大祭りのひとつ、時代祭の先頭を代々担ってきた地域に戻ってきた。明治維新の官軍。勝てば官軍である。
父方の家系は鎌倉時代から続く島津家と長い間関わりを持ってきた。いわば、心のよりどころを持つ人物である。片や母親の生まれた育った場所は、今や日本ではない。
本来京都と薩摩といえば、長く深い関わりを持っているはずであるが、父親の実家は、明治維新のあと決別した、大久保と西郷の、西郷を担ぎ上げた勢力に属していた。西南戦争の負け組。
文化というものは、長く続けば続くほど異なるものを受け入れがたくなる。両親の世代では、まだまだ「敵同士」という考えたかが根強く残っていた。母親は押しつけられる伝統に抗い、家出に近い形で実家を出た。なのに、巡り巡って、双方相容れない家系同士所帯を持つことになった。
それぞれの家の話を小さい頃から聞いていると、何が何だか分からなくなってしまったのである。母親は父親との結婚を本意ではなかったと、繰り返した。恐らくそれは今も変わっていない。結果、未だに両家は相容れないままである。
長くなった。
先日、ある紀行番組で桜島と周りに住む人たちが紹介されていた。わたしは両親とまったく似ていない。それが心に安定をもたらさないと、常々思っていた。ところが、桜島の麓に住み続けている住民が映し出されたとき、その男性のまゆ毛がわたしとまったく同じ形をしていることに気がついたのである。わたしのまゆ毛は父親とも違っている。しかし、父方の家系は桜島に近い大隅半島に代々暮らしていた。
わたしのまゆ毛は、父親とは異なるが、家系が根付いた地域のまゆ毛だったのである。目から鱗が落ちた。
ルーツのもやもやしていたわたしが、初めて、その一端を理解した瞬間だった。少なくとも、片方の血は確実に受け継いでいることがやっと、腑に落ちたのである。
他人のまゆ毛に自らのルーツを見いだすとは。
遺伝とは、複雑怪奇な出来事である。

