5月12日(水)
長らくブログをこのアメブロでやっていて、せっかくブログテーマがあるのだからと、書き溜めてきたこれまでのものを鑑みてテーマとして独立できそうな記事を振り分けてみることにした。そうして――多いのか少ないのかわからないが――いくつかのテーマが新設され、そのうちのひとつが「蟻といた日々」である。これは少し前に席巻したテーマで、かいつまんで説明すると、僕の部屋とりわけ机周りにアリがよく散見されるようになったわけで、ぷちぷち殺生するのが性に合わないからと静観を保っているうちにいつのまにやら好き放題やられているとかいないとか……。そんな観察日記を綴ったものがそれらなのである。
▽▽▽
さて、それでアリによる僕の聖域完全制圧がいよいよの段階まで差し迫ってきて、そろそろ我慢が限界に達したのが少し前のことである(4月21日ぶん参照)。その気になれば目につくアリ全てをことごとく押しつぶすことで当座の解決は見込めるという、多勢に無勢ならぬ「多勢に有勢」な戦況ではあるが、単純に力によってのみの解決は望むものではない。憎しみは次の憎しみを生むだけであるから。そこで、平和的解決の策を求めて僕は図書館に足を運び、アリにまつわる書物を探した。そしてそれを精読したのが――遅くなってしまったが――昨夜である。
▽▽▽
著者はアリを研究する学者。内容は、実寸大で描かれた100種以上のアリの紹介、体のつくり、基本的習性にはじまり、長年の研究のなかで見られた珍行動や戦々恐々のエピソードなど、アリ目線、研究者目線の双方が広く入り混じったいわゆる「アリ」を手っ取り早く知る入門書であった。図書館でその本を見つけたときは、時間の都合上ほとんど中身を見ることなく借りた。唯一目に入ったのが「集団行動」という単語で、十中八九アリの基本的習性である集団行動のことが記されているはずだと期待を込めた――徐々に構成する数が多くなる「集団」で蹂躙されることが今回の煩わしさの核なのだ。その集団行動の秘密が明らかになれば、それを分断させるヒントを得られるという目論見があった。
▽▽▽
実際のところ――かなり浅くではあるらしいが――集団行動いわゆる「アリの行列」ができる秘密は明らかになったのだけれど、しかしそれを散り散りにさせるヒントはついに得られることはなかった。アリは自身らが尻から出す特殊な液、通称「道しるべ液」を辿り、さらにその際に液を上塗りして、以下それがくり返され行列ができることは知っていた。そしてその液は揮発性で、上塗りされなければ効果はすぐに消えるということを今回新たに知った。しかし今日、長時間アリが上塗りしなくて液が気化しても、また、ふき取ってみても、僕のもとにはアリは再びやってきたのだ。もはやそれは帰巣本能としか思えず(そんなものがあるのか定かではないが)、ならばここ机周りが彼らの巣、もしくは第二のふるさとになってしまっているとしか考えられない。そしてその考えは僕の戦意を喪失させる。
▽▽▽
結果として、その本を読んでもアリがいなくなることはなかった。しかし、奇妙に聞こえるかもしれないが僕のストレスはなくなっている。なぜか。それは本のそこここにあふれ出ている著者のアリに対する愛、それが見事に僕にも宿ったことによる。すなわち、今の僕は相変わらず歩き回るアリを見ても、一端の研究者のように愛をもって彼らの営みを眺めているのだ。しかしこの愛もある意味揮発性といえそうで、どう転んでもアリの研究者ではない僕はじきにまた煩わしさが先行するだろう。鬼が仏のごっこ遊びをしている今が最後のチャンスである。アリよ、ぐずぐずせず即行で避難されたし。
参考文献
大河原恭祐著 『いつか僕もアリの巣に』 ポプラ社