1月11日(月)
今年も読書の基本軸はどうやら直球の文学。次はコレ、その次はアレ、と頭のなかでは名だたる文豪が順番待ちの列を成している。その光景は正直かなり豪勢で(合成でもある)、だけどそれ以上にオーラとでも言おうか、圧が半端ではない。いかんせん読むスピードが遅いせいで、列はなかなか捌けていかない。「伊豆の踊子」のプレートを首からぶら下げた川端康成大先生に至っては、もう何か月も立たせっぱなしである(2月26日ぶん参照)。
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それで、今、相も変わらず就寝時を中心に読んでいるものがあるのだが、これがまたペースを遅滞させてしまっている。それは短編集で、それぞれとてもおもしろく、表題作に至ってはあらゆる小説のなかの自分的十傑に入るのではないかというほどの、良作揃いの一冊である。
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その評価で間違いはなく、確かにそうだったのだが、現実は残り一編というところで滞ってしまっている。早い話がマンネリで、各短編の内容はそれぞれ異なるが、設定や中心となるテーマがどれも共通している、言い換えれば、どれも似通っていることにそれは起因する。そこで、おいしいものは然るべき時期に食したいと考え、ここは一度箸休めとして、まったく毛色のちがうものを読んで気分を改めようと考えた。
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その変化球として選んだのが、図書館で借りてきた、お気に入りのバリバリ現代の作家さんのエッセイ。コメディを身上とするその人らしい、実に親しみやすくてたのしめる文章が、各話3ページほどで完結している。失礼な話だがはじめはほんの箸休めの気持ちであったのだが、気がつけば――ごく短時間でひとつ読みきれることも手伝って、なかなかの没頭ぶりを見せている。
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じっくり読みたいと思っているのだが、そうできていない理由がふたつある。
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ひとつは、文豪の圧だ。割り込ませたエッセイを悠々と読んでいては、「其れは規則違反ぞな、もし」や「さういふ事は聞ひて居らん」などの苦情が書簡で続々と寄せられる錯覚がし、激しい罪悪感に打ちひしがれるからだ。
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そしてもうひとつは、気づかぬうちにするすると読み進んでしまうからだ。気づかぬうち、というのが厄介で、だからそのことに気がつくまでに時間がかかった。そのエッセイは「活字を追っている」という感じではなく、一緒に流れていくような読感なのだ。それは歩くことに似ていて、右足を出したら次は左足、左の次は……と意識することなく勝手に先へ進んでいく。ならば小説はいちいちそんな面倒越しに読んでいるのかとなれば、作中世界に入りこめばそうではないが、序盤はやはりその感は否めない。
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これはエッセイで、だから小説と比較するのはそもそもお門違いである。エッセイとは往々にして「歩くように読める」ものである。大前提として、万人に理解ができる文章であるということがある。小説はときに、あえて難解な描写が用いられるけれど、それとて基本は明瞭な文章、それに尽きるのだろう。
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要するに、ジャンルによって一概にそうとは言えないけれど、文章を書くに際して念頭に置くべきは「歩行感」であると改めて知った。まったく、森羅万象いちいち勉強になる。