天才演出家でありますように。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 1月3日(日)

 特別な用事などはなかった。そうなると、同じくしていそうな友だちに声をかけ、何はなくともとりあえず落ち合って適当なところに腰を据え、とりとめもないことを延々と話す。我々はもう、小学生のように、会いたいと思ったそのときに会えるようなものではない。ならば会えるときには何はなくとも会う、というのが道理なのかもしれない。

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 目的がないときには、今日のような大型ショッピングセンターなどは便利がよい。適当にぶらぶら売り場を練り歩いていると、ああそういえば、という具合に必要品が意識に浮かび上がってき、見繕っているうちに建前上の「そこに来た目的」はいつのまにか果たされたことになる。そして疲れたら、休む。適当に喫茶処を見つけては、休む。

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 それこそが本音のところの「目的」である。人が淹れてくれた飲み物をすすりながら、他では展開するのが憚られるようなくだらない話題を投じる。相手が気の合う人ならば、例えどんな音が響こうが愉快であり、そんなことを延々とくり返す。飲み物などはとっくになくなってしまう。それがよくある光景なのだ。

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 あらゆるフロアを探索し、賑わいに少々疲れた我々は、適当に最寄りのフロアの喫茶店を探した。動かずぐるりと見渡すだけで3つほど、うってつけのそれが目に入る。どこにしようか、と互いに探り探りし、なんとなくひとつの店に足が向く。どこでもよくても迷ってしまうのは、もしかしたら「ソレ」の神様の演出なのかもしれない。だとしたら、なるほど神様とはよく人間の心理を心得ている。紆余曲折があったときほど、後のありがたみは大きくなるのだ。

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 おやおやおや、と思う。忙しそうな店内でせっせと働く店員のなかに、見知った顔がひとつあった。後に、友だちも自分と同じくらいのタイミングで気がついた、と言った。その顔はずいぶんと久しく、たいした面識がない、と言ってしまってもいいかもしれない。けれど、これまでふとしたときによく思い出す人で、願わくば会いたいなぁと考える人なのだ。そう思うような人は自分のなかに決して多くはいない。

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 「縁」というものについて、少しだけ考えてみた。縁、であると、繋がっているのだ、と言うと、それは独りよがりな考え方になってしまうかもしれないけれど、会えた、ということはそこには縁があったからだと考えてかまわないかもしれない。こればかりはまったくの偶然だったのだが、向かいに座って冷たいウィンナーコーヒーを飲む友だちとの会合を必然、とするならば、偶然も必然も「縁」は内包する。すべて、縁があるからなのだ。

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 それにしても、「会いたい人に会えた!」という偶然が自分には案外よくある方だと思う。それは意識・無意識の問題で、特に思い入れのない人には会ってもそれが記憶にカウントされていないだけ、という見方もあるかもしれないが、広い世界、行動パターンも知らないような会いたい人に偶然会える確率とはどれだけ小さなものだろうか! 必然、の縁もまた然りで、交わした約束を果たすことは簡単なものかもしれないが、同じ時間に、同じ場所へ同じ目的で向かいやがて合流するということは、人の動きを点にして地球規模のモニターで宇宙から見たとき、それは奇跡のように映ることだろう。

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 喫茶店で、その人に自分を気づいてもらえたかはわからない。話しかける勇気がボクにはちょっとなかった。もし気づいてくれていたとしたら、それはとてもうれしい。きっと「縁の神様」は仕向ける程度で決定的なことには手を下さない。もし気づいてくれていたなら、モニターを傍観しているであろう神様も、きっとうれしく思ってくれるだろう。

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 ところで自分にはここ何年も、心の底から会いたくてたまらない人がひとりいる。ほんとうに頻繁に、もう何年も知らないその人のことを思い出し、考える。今日のようなことがある一方で、そのようなこともあるのだ。縁がないのでは、と考えて気がふさぎそうになる日もあった。けれど、これからはもう少し前向きに考えることができそうだ。すなわち、これもまた演出なのだ、と。縁の神様とはおちゃめな善い人だと信じている。