10月30日(金)
なにかひとつのことに秀でて、その道で食べていくような生き方は誰しも一度ならずとも憧れたことはあるだろう。自分もまた同じで、昔から、なにか見聞きしたものからビビビと感じるものがあればそれを極めてどうにかならないものかと少しもがいては、ことごとく挫折してきたクチだ。
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挫折の原因で、最も手っ取り早い説明をつけるとしたら「単にその才能がなかったから」に集約することができるの。だけど、それで済ませてしまうのはあまりにも救いがない。
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天才と呼ばれる偉人のひとりにエジソンがいて、彼の語る天才論に「1%のひらめき(才能)と99%の努力」がある。二通りの解釈があるとは有名な話で、今日はそのうちのひとつ、つまり「ほとんどは努力」を取り挙げたい。
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努力の中にも色々な仕方があると思う、一心にひとつのことに従事するのもそうだが、自分としては「総合的にタフになる」努力こそが最も重要だと考える。それは、たとえなにかひとつに抜群に秀でていても、広い世の中で陽の目を見るのは、もはや自分の力だけではどうにもならないところは多分にあると考えるからで、それで自分に陽を当ててもらえるように自らをあれこれマネジメントする努力に長けている人こそが、天才になりうる素質があると思うのだ。よって、ひとえに言うとしたら、いわゆる「天才」とは才能によるものではないというふうに考える。むろん才能に恵まれているに越したことはないのだが、どちらかと言えば自分をマネジメントする力をきちんとつけたからこその「天才」だ。
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ちっともエジソン信者ではないけれど、奇しくもどんどん件の名言に歩み寄っている気がするのだが、――これは負け惜しみでもなんでもなく、才能がモノをいうのは最後の1ステップだけだと考える。総合力がなければどれほど才能に恵まれていてもいわゆる「天才」にはなれず、逆に言えば総合力さえつけていれば、とりあえずがんばり次第で最終ステージにまで駒を進めることは可能だと考える。そしてそこまで来れば、あとは自分の内に秘めたる感性を信じて、それが花開くのを待つもよし、そこまでの過程で新たに見えた別の方面で活躍の場を見つけるもよし。くどいようだが、何をおいてもまずは総合的にタフになること、それは当然本分に力を注ぎつつも総合力をつけることである。それがすなわち努力ということになる。
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仮に世間的に「天才」と呼ばれるまでになったとしても、総合力磨きに終わりはない。つまりそれは、死ぬまで続けてかまわないというものだ。だから、この先どんな生き方を志願するにしても、頑固に視点を固定してしまわずに、あらゆる面の強化に努めなくてはならないと思うわけだ。これが自分なりの「天才とは1%のひらめきと99%の努力」の考え方。オリジナルと言いつつ、実はまっとうなものなのかもしれないが。
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なぜ、またぞろ今日、改めてこんなくそ熱いことを書いたのか、それはふと自分がそんな努力を怠っていることに気がついたからだ。思えば、大嫌いだった教科も勉強しなくてはならないことが嫌で、当時、国公立大学の受験を放棄した自分であった。多くのものに目を向けることがすごく苦手な自分、だから今日出た答えはとてもうんざりするものだったのだけど、妙にしっくりくることからどうやらそれが正解のようだ。いやなことだけど、自分の正解には逆らえない。