池のほとりに立つ。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 10月11日(日)

 日曜日穏やかな昼下がり、また例の「たのしきストレス」に頭を悩ませている。ラジオを聴きながらその傍でブログを書く、というやつだ。パソコンはラジオの電波妨害に関してかなりの影響力があるようで、なんとか大移動させずともその問題を、挙句はラジオの音質をクリアにできないものかと今日も新たな方法をあれこれ画策している。そうして今ようやく、文章で説明はできないけれど、なかなかとんでもない体勢でひとつ双方が並び立てるシステムを見つけ出せた。そんなどうでもいいインフォメーションをしたところで、今日もはじまります。

▽▽▽

 そういうわけで昨日、近くの池へブラックバス釣りへと出かけた。相変わらず週末のどこかで夜な夜な細々と続けているビリヤード、そのおもしろさをボクに教えてくれた近所の幼なじみと一緒に行った。実は前夜も一緒にビリヤードをしてあそんでい、半日後に再び集合してあそびに行くなんて、ここしばらくないことでとても新鮮だった。しかもどちらも非常に健全なあそびかたで、なんだか小学生にでも戻ったような気分だった。

▽▽▽

 幸運なことに、ボクらの家から近いところにバス釣りスポットとして割と有名な池がある。ボクの暮らす住宅地は、小中の校区の中ではかなりの郊外に位置し、距離の問題からとりわけ学童期は交友関係を詰めることにたくさん辛酸を嘗めた。今となってはおおいに満足しているが、そんなことだから当時は学校を基点としての自分の家の遠さを何度となく恨んだものだった。だけれどひとつ、自分の家がこの住宅地にあってよかったと誇りを持てる気持ちにさせてくれるものがあった。それがこの「近所の池」の存在だった。バス釣り全盛期の当時、学校で他の校区の友達からよく「あの池が近くてうらやましい」などと言われ、そのたびにボクは「まんざら、悪いだけではないのかも」と思うことができた。ひょっとすると現在の自分を形成する重要な価値観のひとつ「あらゆるものごとは一長一短である」のルーツはそんなところにあるのかもしれない。

▽▽▽

 その池は近場とはいえ、丘に手を入れつくられたこの住宅地は坂道ばかり、行くにはそれ相応の丘登りを強いられる。それを当時は収まりの悪い釣竿かついでうんとこどっこい自転車立ちこぎで越えたものだった。あれから10年、ボクらはすっかり大きくなって、いろいろな権利も得、丘登りなどは原付きでひとっ飛びだ。15分くらいはかかっていた道のりも、そんなことだからものの5分、これからは気持ち的にはジョギングよりも手軽にバス釣りに行くことができると思った。

▽▽▽

 ボクたちふたりは幼なじみだけれど学年がひとつちがう。ボクがひとつ下だ。だからいつも一緒にあそんでいたというわけではなく、たまの家族ぐるみでのお付き合い以外には各々同学年の友達と青春時代を過ごした。それでもふたりともバス釣りにハマった時期もあったことから、学年の壁みたいなものがなくなった今、ボクの「釣り部発足」の話題が出たビリヤードの夜、「じゃあ明日行こうか」とあっさり決まったのだった。

▽▽▽

 ボクに関して言えばその池に行くのはかれこれもう10年ぶりだ。ブラックバスをはじめ国内での外来魚排除の声が喧しいここ数年、もしかしたらもうこの池にもバスはいなくなってしまったのではという懸念はどちらの心にもあったの。しかし、到着してそんな不安は一瞬で消え去った。10年前と同じような釣り人が、しかし10年前よりもうんと少なくなってはいたけれど、確かにいたのだ。それに昔はなかった看板「ここで釣ったブラックバス及び外来魚の再放流を禁じます」。遠まわしにとんでもなく残虐なことを示唆している文句だけれど、確かにバスがいるという示唆にもなっている。そうしてふたりは嬉々として仕掛けをつくり、向こうに浮かぶいちばん大きな雲に届けとばかりに疑似餌を投げた。

▽▽▽

 釣れる釣れないはさほど問題ではない。むろん、釣れた方がおもしろいけれど。晴れた空の下でのんびりと水辺にいるだけで、どんどん体の中が浄化されていくような心持ちになる。それがほんとうに気持ちよく、これもまた、細々と続いていきそうだ。幸い、ボクには近くに池がある。この調子で行くたびごとに釣果があがってくれれば言うことはない。だけどあくまでも今は、針に魚がかかるのはオマケみたいなものだ。池のほとりに立つことに、今はいちばん意味がある。