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 野崎観音1

大阪府大東市野崎にある。野崎観音として知られる。
大阪平野を望む生駒山地北部の中腹に位置する。

 野崎観音2

曹洞宗 福聚山(ふくじゅさん)  慈 眼 寺
創建 天平勝宝年間(749~57) / 開基 行基
本尊 十一面観世音菩薩
河内西国三十三箇所特別客番

 野崎観音3

「♪ 野崎参りは 屋形船で参ろ どこをむいても 菜の花盛り」
昭和10年(1935)東海林太郎が歌った「野崎小唄」は
地元有志がPRのために制作したが 思いがけない大ヒットとなり
この歌で 全国で野崎参りを知らぬ人はいないほどになった。

東海林太郎(とうかい りんたろう しょうじ たろう)をご存知でない方も多いので
この方 ↓ なら いかが?



野 崎 小 唄 作詞・今中楓渓/作曲・大村能章
 野崎観音4
野崎参りは 屋形船でまいろ / どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる / 呼んでみようか 土手の人

 
野崎参りは江戸時代の元禄年間(1688~1704)から盛んになった。
野毎年5月1日から8日まで行われる無縁経法要に参詣して、
有縁無縁すべてのものに感謝のお経を捧げる。
期間中は全国各地から参詣者が集まり、
JR野崎駅から参道には 300軒もの露店が並び とても賑わう。

 野崎観音5

大阪からの野崎参りは船路と陸路があった。
船路は 大阪・天満の八軒屋浜から大川 寝屋川 谷田川を経て観音浜に着く
屋形船で行く人は 川岸の景色を眺め 川遊びをしながら船の旅を楽しんだ
川の土手を歩いて 野崎観音に向かう人たちと 船の人たちが、
お互いに 悪口を言い合う「ふり売り喧嘩」と言う風習があり、
面白おかしく伝えられ 落語「のざきまいり」の題材にもなっている。

 野崎観音6

天平勝宝年間(749~757)インドから来朝した婆羅門僧正が行基に
「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(サルナート)に似ている」と語り
それを受けて 行基が白樺で十一面観音を刻んで安置したのが始まり


 野崎観音7

 野崎観音9

現在の本尊・十一面観世音菩薩像秘仏は白檀の一木造りで
長谷寺の本尊と同木から彫られ 躍動する龍の背に立っている。
脇侍仏として 右に普賢菩薩像 左に文殊菩薩像が安置され、
周りに 持国天 多聞天 広目天 増長天の四天王像が本尊を守る。
本尊は 初まいり(1月) 野崎まいり(5月) 千日まいり(7月)
年3回ご開帳され拝観できる。

 野崎観音10

平安時代中期 一条天皇の時代(986~1011)
淀川河口の江口の里の遊女・江口の君が
病気平癒を祈願して願いがかなえられ、
その報恩に低地にあった本堂を現在地に移し
寺坊を再興して中興の祖と呼ばれた。

 野崎観音11

本堂脇にその江口の君像を祀る江口の君堂がある。
江口の君像は 彩色された官女風で りんとした姿で座しており、
婦人病や 縁結び 子授け 安産などのご利益がある。
特に命日の毎月14日には 女性のお参りが多く、
江口の君堂を 左から右へ年齢の数だけ回ると ご利益がある。

 野崎観音12

中世以後は戦乱により衰微
永禄8年(1565)三好義興・松永久秀の戦禍(東大寺大仏殿の戦い)にかかり
本尊を除いて全焼。
元和2年に(1616)青厳によって再興、天和2年(1682)野崎詣りが始まる。
元禄・宝永年間(1688~1710)に野崎参りが盛んになり繁栄。

 野崎観音13

毎年5月1日~8日の無縁経法要に参詣するのを「野崎詣り」と言い、
かつては 西側一帯は大坂からつながる大きな池(深野池)があり
大坂からは野崎参りの屋形船が行き来していた。
大和川付け替え以降は 寝屋川および支流の谷田川を行き来するようになった
天満橋にあった八軒家船着場から上っていくのが有名で、
陸路を歩く参拝者と罵り合って競り勝てば 一年の幸を得られたと伝わる。


 野崎観音14

「涅槃会や 皺手(しわて)合わす 数珠の音」
「観音の いらか見やりつ 花のくも」
芭蕉の句碑がある。芭蕉が野崎観音に来た記録はなく、
いずれも江戸・深川の芭蕉庵から浅草観音を眺め
持病の胃潰瘍に悩まされうつうつとした時の句である。
慈眼寺近くに住んでいた地元の俳人・河城と言う人物が、
野崎観音にちなんでこの句を選び句碑を建立した。

 野崎観音15

「涅槃会や…」の句は、
寺宝として蔵する釈迦涅槃図開帳の時の様子を詠んだもの

 野崎観音16

本堂は兵火などで度々焼失し、そのつど再建されてきた。
現在の本堂は昭和25年(1950)住職が河内一円を托鉢した浄財で、
東大阪市日下の大龍寺の観音堂を譲り受けて移築した。

 野崎観音17

羅漢堂には十六羅漢像が安置されている。
十六羅漢とは長くこの世で正法を守り衆生を導く釈迦の16人の高弟。
江戸時代から河内地方に「野崎観音十六羅漢 うちの親父は働かん」と

子供たちが歌うユーモラスな遊び歌があった。
羅漢堂は昭和26年(1951)の山崩れで流失し、
羅漢像も傷ついたが最近ようやく修復され、
仮の羅漢堂に安置されている。
十六羅漢の中心 釈迦如来像は 薬師堂に仮安置

野崎観音に因むエピソードで有名なのが、
人形浄瑠璃や歌舞伎でおなじみの近松半二作の
「新版歌祭文・野崎村の段」「お染久松」の悲恋物語。

 野崎観音18

観音さまを かこつけて 逢いに北やら南やら
お染は思い久松の あとを慕うて 野崎村
 
質屋・油屋の丁稚・久松は 油屋の娘・お染と恋仲になったが、
その仲を裂かれ 野崎村に帰された。
お染は 野崎参りにかこつけて野崎村の久松を訪ねる。
しかし お染にはすでに縁談があって 結納も交わされており、
久松にもお光と言う許嫁がいた。
彼をお染に譲った許婚のおみつは 泣く泣く堤に立ち尽くす。
このままでは添い遂げることができないと 二人は心中を覚悟する。
一方、お光は久松をお染に譲ろうと決心し
そっと涙を流して尼になると言う心中悲恋物語。

 野崎観音19

境内には お染と久松を葬った比翼塚がある。
お染久松の墓は、 河内・ 野 中 寺 にある。

 野崎観音20

境内には南條神社や役小角像も鎮座し
神仏習合や修験道の歴史を今に伝えている。

本堂には 平成11年に完成した壁画「花蝶菩薩」があり、
河内西国霊場すべてを拝むことができる三十三所観音堂がある。


 2010 05 08


 野崎観音21