野  中  寺
( や  ちゅう  じ  )

 薬14-1
 青 龍 山  野 中 寺  

聖徳太子の命によって蘇我馬子が造営 「中の太子」と呼ばれる。
実際は この地方を本拠地としていた百済系渡来人の氏族・船史(ふなのふひと)氏の氏寺として創建。

 薬14-2

叡福寺(神佛霊場大阪16番・仏塔古寺2番)を「上の太子」、
八尾市・大聖将軍寺を「下の太子」と言う。
あわせて「河内三太子」と呼び、聖徳太子が建立した41院中の寺。
聖徳太子創建の四天王寺を振出しに下・中・上と太子寺を巡る太子信仰の太子巡礼が盛んだった時代もある。

 薬14-3
7世紀半ば~8世紀に造営された創建当時の伽藍は、南北朝時代の争乱による兵火でことごとく焼失。
境内に残る礎石から創建当時は 東に金堂、西に塔を配置する法隆寺式伽藍配置だったことがわかる。
金堂と塔が向かい合っていたことに特徴があり、中門跡、講堂跡、回廊跡とともに「野中寺旧伽藍跡」として国の史跡に指定。
 薬14-4
塔跡の中心の礎石は添柱穴が3つあるのと、柱穴側面に横穴式の舎利を納める小さな穴があり、他に例を見ない塔の礎石である。
 薬14-5

現在の本堂などの建物は江戸時代に再建されたもの。

本堂 本尊薬師如来坐像を中心に右に愛染明王、左に不動明王を祀る。

 薬14-6

金銅弥勒菩薩半跏思惟像(国・重文)
わずか30.6cmの弥勒菩薩像 台座のまわりに造像銘が刻まれている。
天智天皇5年(666) 斉明天皇が病になり、大勢の人が病気平癒を祈願して造立したとある。
製作年代、像名が銘記されている極めて少ない例で、飛鳥時代末の貴重な仏像のひとつ。
(( 毎月18日にのみ 拝観できる。 ))

 薬14-7
 
地蔵菩薩像(一木立像) 重文

渡来氏族の氏寺としての遺物 朝鮮文化の影響が色濃く出ている笑みをうかべた石人像

比丘尼寮、沙弥寮、食堂(じきどう)、方丈の僧房は、僧侶の生活を知るうえで貴重な遺構
現在の方丈は 大和の郡山藩柳沢家の別邸を移築したもの。

庭園には大阪天王寺屋の庭から移植した「縁結びの山茶花」(樹齢400年超)

霊園(墓地)  お染・久松の墓
元禄時代、大阪東堀瓦屋橋通りの油屋の豪商の娘お染と 丁稚久松の悲恋心中の巷説で、浄瑠璃・歌舞技・義太夫等の世話物。
久松のことをひた向きな心の大店の娘(恋人のお染)と、いじらしい田舎娘(許婚のお光)の野崎村の駕籠と川舟(屋形船)の対応は、1808年大阪小川座で上演され、その評判は江戸の世界に移り (鶴屋南北作)歌舞技で一世を風靡した。
昭和に入っても歌謡曲「野崎小唄」として親しまれた。
 薬14-8
その二人の霊を慰めるべく 享保7年(1722)17回忌に天王寺屋権右衛門が遺品を納めた墓石が残る。

 薬14-9



 2009 04 06



 薬14-10








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