昨日は登米市のホテルで一泊し、朝食等を済ませていつものようにAM8:00頃チェックアウトした。沿岸部へ出るため398号線経由で志津川へ下り、歌津~本吉~気仙沼へと向かった。気仙沼市内の手前、波路上にある昭和8年の津波記念碑は昨年チェックしたが、杉ノ下地区にある震災の慰霊碑はブロ友さんの記事で知るまでノーマークだったので今回初めて訪れてみた。



 慰霊碑の背後は丘のようになっており、天辺には避難場所も兼ねたデッキがある。ブロ友さんが指摘されていたようにホヤぼーやのポールには津波の到達地点がマーキングされており、丘の高さはこれ以上に設定されたと思われる。

 遠方には伝承館となった旧向洋高校の校舎が見えるが、震災当日は屋上まで津波が到達するのではないかと思われるような勢いだったという。つまりあの日この一帯は完全に水没していたことになる。昭和8年の津波記念碑は上写真の右端の位置にある。


 杉ノ下地区の突端には大きな欅(ケヤキ)があり、震災当日はこの木に登った10人あまりが助かったことから「命を救った欅の木」と呼ばれるようになったという。
 この日は海岸でサーフィンを楽しむ若者、グランドゴルフを楽しむ高齢者などの姿が見られ、あの日の惨事を想起させるものはなかったが自分には14年経た今も連日報じられた被災地の惨状は忘れられない。



 この後は市内の市場でホヤぼーやグッズや海産物を買い求め、気仙沼湾対岸の浪板地区や鶴ヶ浦漁港などに残る昭和8年の津波記念碑を記録して唐桑半島に移動した。


 唐桑半島は津波記念碑が9ヶ所現存が確認されているとのことだが、昨年の広田半島と同様に点在する石碑を調べるとどうしても時間を取られてしまい全てを調べることはできなかった。ちなみに巨釜にある「折石」は明治29年の津波で先端が折れたことから「折石」と言われるようになったという。これもある意味津波記念碑(震災遺構)と言えるかもしれない。

 唐桑半島の先端(馬場地区)にはビジターセンターがあり、同敷地内にも昭和8年の津波記念碑があるので記録したのち館内を見学して三陸グッズを購入。この時ガイドの方に津波記念碑の情報を何かご存知ないか訪ねた所、イラストマップだけでなく詳細な調査をまとめた冊子(教育委員会や郷土史家が編集したレベルの冊子)も頂いた。値段を問うと「差し上げますよ」と言われ逆に申し訳なく思ったが、広島からわざわざ唐桑半島まで津波記念碑を調べに来た自分に思う所があったのだろうか(そもそも非売品の私的出版なのかもしれない)。重ねてお礼を言い、イラストマップも参考にしながら小鯖地区や鮪立(しびたち)地区などを回って唐桑半島の調査を切り上げた。唐桑半島の津波記念碑については帰ってから改めて記事にしたい。

 今日は夕方までに大船渡郊外のホテルにチェックインしなければならないので陸前高田は帰りに寄ることにして往路は通過したが、松原の伝承館や道の駅は満車に近い賑わいだった。大船渡市内の書店で震災関連の書籍を物色して今日も時間通り無事ホテルにチェックインできた。
 明日は昨年津波石を調べた三陸町吉浜地区まで行き、これで往路の予定は終了、宿泊地の志津川まで戻りながら何ヶ所か立ち寄る予定。

↑気仙沼港に寄港した漁船