現地行動の最終日、昨夜から雨になったらしくシトシト雨が降る生憎の天気となった。じっとしていても仕方ないので荷造りをして施設の人にお礼を言いチェックアウトする。まだ8時過ぎということもあり、さんさん商店街もひっそりしていた。398号線を北上川方面に向けて淡々と車を走らせる。目の前に追波湾が見えればもうすぐ新北上大橋が見えてくる。
今回は往路に大川小学校へ寄らなかったので帰りに寄るため追悼と見学に訪れた。連休最終日の小雨模様だったが駐車場には20台近くの車が停まっていた。
敷地内では既にガイドの方が数名のグループを案内しており、今も多くの人たちがこの場所に関心を持っていることを伺わせる。こうして見ると大川小学校や南三陸町の防災対策庁舎は東日本大震災の象徴として多くの人たちの記憶に刻まれたのだと感じる。
2011年8月にこの場所を訪れて以来ほぼ欠かさず年に二度大川小学校に来ているが、大川小学校の惨事は「何の前触れもなく大切な人を亡くすとはどういうことなのか」ということを考えさせるきっかけになった。それまでは漠然と「人はいずれ死ぬものだ」くらいにしか思っていなかった自分の死生感について考えを変えることになった出来事でもある。
この後雄勝町でお土産用の海産物を仕入れ、女川経由で石巻方面に向かった。当初は牡鹿半島に行くつもりだったが、この雨で気分もダウンしたので石巻市内に予定を変更した。頂いたお土産や購入した書籍、海産物は石巻のホムセンで段ボールを買って箱詰めにし、宅急便で自宅に発送した。
思えば震災遺構の門脇小学校は昨年見学したが、ブロ友さんが紹介していた伝承交流館MEET門脇311はまだ行ってなかったのでそちらを見学することにした。
こちらは館内で数名が見学していたが、シアタールームの証言映像を見ていたら貸し切り状態になっていた。この施設はあの日被災者はどのように行動したのか、災害に備えるにはどのような準備や心構えが必要なのか、といった「災害から学ぶ」というテーマで運営されているのかなという印象を受けた。
見学を終えて受付横の冊子を買い、先ほど大川小学校を見学してきたことを話すとこの方は大川地区出身の方で今日は門脇の方へ来ているとのことだった。地域の人たちは顔見知りの人ばかりなので犠牲になった児童たちも当然よく知った間柄だったという。それだけに震災後の学校側や教育委員会、検証委員会などの対応には怒りを禁じ得ないようだった。自分も個人的にこの裁判や検証委員会の成り行きを追っていたので関係者の責任逃れや保身、不誠実な対応に遺族らは納得できないだろうと思った。
話していると1人の女性が入ってきたのでそろそろ帰ろうか、と思ってその人の顔を何気なく見たら思わず「あっ!?」と声が出そうになった。その人は日和幼稚園の送迎バスで娘の愛梨ちゃんを亡くした佐藤美香さんだった。
↑佐藤さんはこれまでに日和幼稚園の安全管理を巡り遺族の1人として「あの日何が起きていたのか」「なぜ危険な海側へバスを走らせたのか」といった問題提起をする一方、命の重さやこうした惨事を繰り返さないように語り部活動なども行っている。
あちらには面識のない自分が声をかけるのもどうかと思っていたので二人のやり取りを見ていたが、ガイドの方が佐藤さんに自分が広島から来て色々見ていることなどを伝えてくれた。自分も佐藤さんのことはドキュメンタリー番組やニュースなどで拝見し日和幼稚園のことは自分なりに調べていることを話すと「次に機会があれば見学にも参加して下さいね」と持っていた冊子を手渡してくれた。また、自分の子供が通っている学校は防災に対しどのような備えしているのかを保護者は知っておく必要があると言われたのが印象的だった。
佐藤さんはこれから団体のガイドをするということで出て行かれたが、人生これからという自分の娘が理不尽に命を奪われてなおこうした活動を続けていることに敬服するばかりである。短い時間ではあったが、偶然佐藤さんから直接話を聞く機会を得たのもまたタイミングがいい方向に働いてくれたのかな、と思っている。
なお、自然災害で犠牲になった人に対して遺族が裁判を起こすのはおかしいという意見もあるが、「適切な予防措置を取らなかった故の事故」と「予見不可能な災害」の線引きは難しい面があるし、感情に任せて批判などを行うのは論外と思う。ただ、遺族に対してきちんとその時何が起きていたのか納得のいく説明を行い、今後再発防止に努めれば不毛な争いは変えられるのではないかという気がする。
「頑張ろう石巻」の看板と風になびく鯉のぼり。鯉のぼりの奥には津波で犠牲になった英語教師、テイラー・アンダーソンさんのモニュメントがある。
この後仙台にレンタカーを返却する時間が迫っていたので現地での行動はこれで終了し、今回の行程を終えることにした。