市場やシャークミュージアムなどがある気仙沼市内から湾を挟んだ対岸の辺りは旧鹿折村になるが、こちらの沿岸部にも昭和8年の津波記念碑がいくつか設置されている。昨年この辺りも時間の都合でスルーしていたため設置場所を事前にピックアップしてから訪れてみた(↑上写真は鹿折の波板付近から対岸の気仙沼港付近を遠望)。
↑今回調べた鹿折地区の津波記念碑位置(A~D)
〈気仙沼市波板…A地点〉
かつて震災で「第18共徳丸」が打ち上げられていた鹿折駅付近から大島方面に進み、鹿折川を渡って海沿いの道を進むと波板の津波記念碑がある。「昭和八年三月三日 大震嘯災記念」と書かれた石碑はブロック法面の上に据えられているので気をつけていないと見落としてしまう。しかも据えられている場所が私有地の敷地内のようだったので後面の文字は見ることができず、下から観察するだけにしておいた。
正面の標語は殆どが「地震があったら津浪の用心」になっているが、波板の津波記念碑は「大地震 どんと沖鳴りそら津浪」となっていた。宮城県は津浪記念碑の建之にあたり必ず入れるべき文言(日付や被害状況、朝日新聞の義援金による旨など)を規定していたが、今回詳しく調べてみると正面の標語に関しては厳格な規定はないとも解釈できる記述があった。「地震があったら津浪の用心」の文言はあくまで県側が「参考文」として提起したものであり、指示された標語ではなかったが多くの市町村がこれに倣ったと思われる。
これに対し鹿折では住民が意見を出しあって標語を決めたとする記録が村史に記載されており、「~どんと沖鳴り~」になっているのはこうした経緯があったことが分かった。なお、明治29年と昭和8年の三陸大津波の際に沖合いでスパークする電光を見たとか軍艦の艦砲射撃を思わせる轟音を聞いたとする証言が各地で記録されており、「どんと沖鳴り」はこのことを指しているのだろう(これらの現象と地震や津波との因果関係については未だに解明されていない)。
※…「気仙沼市における明治・昭和三陸津波関係碑」によると後面は津波が発生した時の様子や被害状況、朝日新聞の義援金により建てられたことなどが記されているとのこと。
〈気仙沼市小々汐…B地点〉
先ほどの波板地区から南へ下り、気仙沼湾を横断する橋の下をくぐると小々汐漁港がある。少し広くなった場所に金比羅大権現の石碑と並んで昭和8年の津波記念碑も据えられていた。表面は波板のものと同じく「大地震 どんと沖鳴りそら津浪」となっている。
後面も波板のものとほぼ同じで発生時の概況、被害、天皇皇后両陛下からの見舞金等が下賜された旨などが記載されていた。どちらも製作された地名が記載されていなかったので出自は不明だが、同じ地域で作られたような雰囲気はある。同碑は以前海側に据えられていたが東日本大震災の津波で倒壊し、現在の位置に移転したようだ。なお、この地域は明治と昭和の三陸大津波による犠牲者はなかったが東日本大震災では9名が亡くなっている。