〈唐桑町馬場 地福寺…B地点〉
前回から間が空いてしまったが、今回は5月に調べた唐桑半島の津波記念碑について取り上げようと思う。前回紹介した只越の津波記念碑から4.4kmほど南に下った馬場地区に地福寺という歴史のあるお寺があり、そこの境内に「丙申(ひのえさる)大海嘯紀念碑」がある。「丙」とは暦の上で60年に一度回ってくる年のことで、明治29(1896)年がそれに当たることから申年の丙ということらしい。
まずはその巨大な一枚の石に刻まれた記念碑に圧倒される。下から見上げると上部の文字が読めないくらいの大きさで、昨年大船渡の洞雲寺で見た津波記念碑(高さ約3,8m)も凌ぐのではないかという巨大さだった。
正面は上段に右から横書きで「大海嘯紀念碑」とあり、その下に津波の被害などが刻まれている。しかしこれも漢文様式で書かれているためパッと見には内容を理解し難く、石碑が巨大なため上部の文字も判読できないので「気仙沼における明治・昭和三陸津波関係碑」より書き下し文の一部を引用させて頂いた。
亦(また)今この為の民戸の流出228人、男女溺没836人、宅地廃絶十町三段七畝十三歩、田園山林荒亡二十三町七畝、船舶四百八十一隻、馬匹七十七頭亦其の所在を知らず。偶(たまたま)九死に於いて一生を得し者、資財を亡し衣食を失ふ。親子、夫妻大概離散す。兄弟多方相済(すく)うに暇あらず。慟哭悲鳴の声天地に振動し、悽愴惨痛名状可不(すべからず)。一村尚然る、況(いわ)んや三県数郡惨状果たして如何(いかん)。 以下略
※一町は約3000坪(1ヘクタール)。
碑文からは津波に襲われた惨状が伝わってくるが、この時唐桑だけで845人が亡くなっている。被災した県全てを合わせればその被害は計り知れない、とあり明治三陸津波が広範囲に大きな損害をもたらしたことは想像に難くなかったであろう。
裏側は石碑建立に寄付した人の名前が300人以上刻まれているが、最上段の鈴木哲朗氏は当時としては破格の五十圓(※当時の大まかなレート換算で今の150万円くらい?)を寄贈している。鈴木氏は同村鮪立(しびたち)出身、22歳で家族の反対を押しきってアメリカに渡航、現地で働きながら様々な知識を学び帰国後は気仙沼の漁業近代化や水産加工業などに尽力した人物であるとのこと。プロフィールをざっと調べてみると鈴木氏は失敗を恐れず新進気鋭の精神を持ち合わせていたことが察せられるが、これは気仙沼で阿部長グループを興した阿部泰兒氏を想起せずにはいられない。
なお、同碑は明治三陸大津波から6年後に建てられているので七回忌に合わせたものと思われる。