〈唐桑町半造・柳田國男文学碑〉
唐桑半島の「折石」がある巨釜から程近い半造地区にレストハウスやトイレなどが整備された場所があり、駐車場の一角には「柳田國男文学碑」が据えられている。この文学碑はこれまでに取り上げた「津波記念碑」とは異なる性格のものではあるが、明治29年の三陸大津波に関わるものなので掲載しておきたい。
まずこの文学碑が建之された経緯だが、明治29年の三陸大津波から25年後の1920(大正9)年に柳田國男が唐桑半島を訪れたことに由来する。これを記念して文学碑建立実行委員会が町民らの寄付を募り、明治29年から96年を経た1994(平成5)年除幕式が行われた。
「遠野物語」などで知られる柳田國男(↑)は民俗学の研究などで知られ、様々な文献や研究は多くの人に影響を与えた。本人についての詳しい説明は省略するが、柳田は遠野物語取材のため1920(大正9)年8月16日に盛岡を出発。大船渡、廣田半島を経由して17日は唐桑町の宿浜地区で一泊している。18日は気仙沼→大島を巡り汽船で釜石市に向かった。
この宿浜で聞き取った話は「雪国の春」という随筆に掲載されており、その一部がこの文学碑に刻まれている。
「唐桑浜の宿という部落では家の数が四十戸足らずの中、ただの一戸だけ残って他はことごとくあの海嘯で瞑れた。その残ったという家でも床の上に四尺(※約1.2m)上がり、時の間にさっと引いて浮くほどのものは全て持って行ってしまった。その上に男の児を一人亡くした。八つになるまことにおとなしい子だったそうである。道の傍らに店を出している婆さんの処へ泊まりに往って、『明日はどこかへ御参りに行くのだから戻っているように』と迎えにやったが『おら詣りとうなござんす』と言って遂に永遠に帰ってこなかった。この話をした婦人はその折十四歳であった」(以下略)
明治29年の三陸大津波で唐桑は死者845名、負傷者163名、流出家屋は214戸と甚大な被害を受けた。その後犠牲者供養のためお寺などを中心に石碑が建之されたものの多くが漢文で書かれていた。高僧らの撰文は当時最高の供養とされていたが、その難解な漢文による慰霊碑は馴染みにくいものがあったと思われる。柳田も「雪国の春」の中で「.恨み綿々と書いた碑文も漢語で、もはやその前に立つ人もない」と書いており、大津波から25年後には記憶の風化が進んでいることを伺わせる。昭和八年の津波記念碑が「地震があったら津波の用心」といった平易な文言で書かれているのは分かりやすさを優先したのかも知れない(慰霊碑と教訓碑では石碑の目的が違うので当然ではあるが)。
〈遠野物語と三陸大津波〉
1910(明治43)年に刊行された柳田國男の代表作「遠野物語」は主に山間部に伝わる不思議な話をまとめたものだが、第99話に明治の三陸大津波にまつわる不思議な話がある(以下そのあらすじを掲載)。
上閉伊郡土淵村(現在の遠野市土淵)に助役を務めていた北川清という男がおり、その弟の福二(※福治とする資料もあり)は田の浜(現在の山田町田の浜地区)に婿入りした。福二は妻との間に子供をもうけたが明治29年の三陸大津波で福二と二人の子供だけ助かり、その後流された屋敷の跡に小屋を建ててしばらくそこで暮らしていた。夏の初めの満月の夜、福二は用足しのため屋外の便所へ向かったが、そこへ向かう途中霧の中から男女二人が近づいてくることに気が付いた。船越村の付近まで二人の後をつけ、見ると女性は亡くなった妻であった。福二が妻の名を呼ぶとこちらを振り向いて笑った。隣の男も津波で亡くなった同郷の者で、自分が婿入りする前に心を寄せていたと聞いたことがあった。妻は「今はこの人と夫婦になっている」と言ったので福二が「子供はかわいくないのか?」と問うと妻は顔色を変えて泣き出した。それはとても死んだ者と話しているようには思えず、悲しくて情けなくなり自分の足元を見つめているうちに二人の姿は見えなくなった。福二はこの夜のことが原因で長い間苦悩したという。
東日本大震災の後、被災地では亡くなった人の姿を見たとか夢に現れたといった類いの話はよく見聞したが、明治29年の三陸大津波後にこうした話があったとしても不思議はないと思う。ただ、今風に言えば亡くなった妻が元カレと一緒に幽霊となって姿を見せるというのは福二からすれば家族を失った上に二重のショックを受けたことになり、自分は一体何だったのか?と苦悩するのも当然であろう。当時は親族との体裁や家系の存続などのために本人の意思とはお構い無しに決められた相手と結婚することも珍しくなく、福二の妻もそうした事情があったのだろう。死んでから思いを遂げることができたのは本人には良かったのかも知れないが、わざわざ二人でいる所を見せるなど福二への当て付けではないかと思ってしまう自分は度量の小さい人間なのだろうか?(笑)
それはさて置き、この福二にまつわる話は東日本大震災後再びクローズアップされることとなった。驚いたことにその後のドキュメンタリー番組で福二の子孫に当たる方が今もご在命ということが判明し、当時明治や昭和の三陸大津波をよく知らなかった自分は「あれは単なるおとぎ話ではなかったのだな」と色々考えさせられた。
〈参考文献〉
・柳田國男と遠野物語(徳間書店)
・気仙沼における明治・昭和三陸津波関係碑 第2版(白幡勝美 佐藤健一著)
・備災の遺伝子 津波モニュメントデータベース
(目地和哉・ライブドアブログ)
・風俗画報 大海嘯被害録(東陽堂)