今日も朝からスッキリしない天気模様だがいつものように8時過ぎにチェックアウト、南三陸町の防災対策庁舎を追悼のため立ち寄った。早朝なので殆ど人もおらず、余計に震災前の街並みを想像することは難しい。14年という月日と大規模な復興計画はかつての志津川を激変させたが、庁舎や右後方の高野会館、左遠方のホテル観洋が辛うじて震災前の位置関係を知ることができる。
内部は殆ど片付けられているが、3階の発電機と思われる機器はそのままになっていた。津波の第1波が到達するまで避難した職員や住民らはここで海を見つめながら何を思っていたのだろうか。
これは私事で恐縮だが、震災後南三陸町の漁師さんに漁具を支援しようというプロジェクトがあり、些少ながら協力させて頂いたことがあった。例によって自分はその後のことはノータッチだったのだが、しばらくして自分の携帯にプロジェクトを主宰した方から電話があった。「今から電話を替わります」と言われて「誰だろうか?」と訝っていると電話の相手はなんと亡くなった遠藤未希さんのご母堂である遠藤美恵子さんで、どうやら自分の送った漁具が遠藤さんのご両親の所に行ったらしかった。美恵子さんからお礼を言われたのは覚えているが「未希さんのお母様が!?」と思うと自分もテンパってしまい、どう返答したのかは今も思い出せない。防災対策庁舎で亡くなった職員の方について考えていたら「そう言えばそんなこともあったなァ…」と久しぶりに思い出した。
気仙沼ではいつものように市場でホヤぼーやグッズや海産物を仕入れ、冷凍モノは宅急便で送ってもらうよう手配した。鹿折には東日本大震災のモニュメント(教訓碑)があったので記録したのち近くの食堂で昼食を済ませた。久しぶりにリアスアーク美術館で歴史津波を調べようと思っていたが今日は休館日だったので陸前高田市へと向かった(※因みに陸前高田市の博物館も今日は休館日でした orz)。
アバッセたかたに行くと駐車場の一角に七夕の山車が置かれていた。震災直後の復興計画ではハード面だけでなく地域の文化や暮らしといったソフトの面も重視されたが、祭りもその一つであった。まだ住民が仮設住宅で暮らしていた頃、ともすれば無気力になりがちな人たちに七夕の飾り付けをお願いしたら皆さんが見違えるように生き生きしていたと地元の人が話していたのが印象的だった。
そのアバッセたかたの辺りから海側を見ても震災前の街並みを想像することは困難であるが、陸前高田市のホームページにアクセスするとアーカイブを見ることができる。上写真もその一枚だが、遠方に見えるのがキャピタルホテル1000やタピック45(旧道の駅)ではないかと思う。 こうした写真を見ると陸前高田市や南三陸町の志津川などは震災で町が激変したことをあらためて痛感する。この後は今日の宿泊予定地である大船渡で移動は打ち切った。
〈おまけネタ〉
今日はチェックインまでに時間が中途半端になってしまったので地場のスーパーを回ってみた。道の駅や観光地などでお土産を調達するのもいいが、ケンミンショー的なものを狙うならやはりイオンなどではなく地元のスーパーがよいのではあるまイカ? 岩手の沿岸部で地場のスーパーと言えば「マイヤ」だろうか。ここでは左から「たかたのゆめちゃんこんぶ」、その下は「がんづき」。なお、岩手でがんづきと言えばこのような蒸しパンだが、宮城だとなぜか「ういろう」のような別物になるので注意が必要である。そのとなりはマスカットサイダー。気仙沼のクリームサンド3種類に南部せんべい。南部せんべいはお菓子売り場で棚の一角を占めるくらいバリエーションがあった。
「ジョイス」では左から山のきぶどうジュース、くじら屋の鯨大和煮、ミヤカンのイカ醤油煮。となりは福田パンのあんバターサンド、ジャムバターサンド。何やらずっしりと重い。ここでも南部せんべいを買ってみたがやはり棚の一角が「南部せんべいコーナー」になるくらいバリエーションがあった。今回は購入しなかったが、こちらの惣菜コーナーにあった赤飯は小豆ではなく金時豆が入っていたのにはちょっとびっくり。
※明日は三陸町経由で釜石市~大槌町まで進出したらターンして気仙沼まで引き返す予定。