〈唐桑町只越…A地点〉
気仙沼市内を過ぎて陸前高田方面に進むと只越(ただこし)峠があり、三陸道と45号線は共に唐桑トンネルで抜けている。以前の45号線は海へ向かって下っており、陸前高田方面は海沿いの道を北上するがそのまま進むと唐桑半島方面へ至る。その付け根に当たる只越地区に昭和8年の津波記念碑がある。
石碑は「昭和八年三月三日 大震嘯災記念 地震があったら津浪の用心」という定形の文面。震災前は消防団の屯所が近くにあったようだが屯所は津波で流出したようで周囲は更地になっていた。石碑そのものも震災後地域のかさ上げや整備事業で当初の位置から移動した可能性があるが詳細は不明。今回訪れた時点では八雲神社の入り口近くに据えられているが説明の看板などはないのであまり顧みる人はいないのではないかという印象を受けた。只越は明治29年の三陸大津波で237人が犠牲となり、昭和8年では24人、東日本大震災で6人が亡くなっている。
三陸の歴史津波を紐解いていくと只越ではしばしば取り上げられるエピソードがある。明治29年6月15日に発生した三陸大津波の際、地元の陸軍予備兵士だった根口万次郎は艦砲射撃のような轟音を聞き「敵艦襲来か!?」と装備を身に付け海岸へと走った。しかしその音の正体は敵艦ではなく、根口万次郎は押し寄せた巨大津波に巻き込まれてしまった。後日右手に剣を握ったままの遺体が海岸に漂着していたという。
このエピソードはこれまでに何度か引用した「風俗画報・大海嘯被害録」に挿し絵(↑)付きで掲載されており、三陸の歴史津波関連書籍等で紹介されることもしばしば目にする。挿し絵は想像で描かれたものと思われるが根口万次郎の話は長らく様々な所で取り上げられてきた。大船渡市綾里出身で歴史津波の研究や津波防災の啓蒙活動を行ってきた故・山下文男氏がこの話を検証するため現地で聞き取りを行ったり当時の戸籍を調べてみたところ根口万次郎という人物は只越には存在せず、何らかの作為によるものではないかと推測している。当時の証言に例の轟音を「敵艦が砲弾を撃ち込んでいると思った」とするものがあり、日清戦争後の軍国ムードや災害時に付き物の美談を求める風潮などから被災者の証言をヒントに創作されたのではないかとされている。 東日本大震災でもこうした話の独り歩きは枚挙に暇がなく、「若林区荒浜に200~300体の遺体が漂着している」とか「南三陸町では町長や住民ら1万人が安否不明」「陸前高田市は壊滅」といったニュースが報じられていたのを覚えている。陸前高田市が壊滅という報道はほぼ事実だったが、震災直後の報道の中にはその後誤報と判明したものもありメディアが発達していない明治や昭和の時代なら言わずもがな、である。
こうした話を調べていると様々な記録や資料はどこまで信用してよいのか、と色々考えさせられる。