今日もAM8:00頃に大船渡のホテルをチェックアウトし、国道を釜石方面に進み途中三陸駅(↑)がある越喜来(おきらい)地区に立ち寄った。今日の三陸駅周辺は祝日ということや委託の職員がいなくなったためひっそりしていた(※駅舎は現在カフェとして利用されているようだ)。
 しばらくすると大船渡方面から列車が到着し、先頭にはキャラクター(キキとララ?)のラッピング車両が連結されていた。できれは「あまちゃん」のラッピング車両が見たかったなぁ…。
 この後昨年フォローできなかった仲崎浜の津波記念碑をチェックし、「津波石」が残る吉浜地区を再び訪れてみた。吉浜の津波石については下の記事をご覧下さい。
 


 津波石を見学した後、吉浜駅近くに「日本一小さな本屋」という触れ込みの「カドベッカ」という書店(というか普通の民家↑)があることを知り訪ねてみた。絵本を数冊扱っているらしいということしか知らなかったが、津波石に関する絵本があるかも知れないと思いダメもとで恐る恐る玄関を開けてみた。土間の奥の居間には家主と思われるばあちゃんが座っており、挨拶すると奥からその娘さんと思われる女性が出てきて対応してくれた。自分が津波に関する書籍を探している旨を伝えると  見本を5冊ほど出して説明してくれた。その中にそのものズバリな「吉浜のつなみ石」という絵本があったのでこちらは即決、もう1冊、県立高田病院で被災した方々の体験を綴った「ふろしきづつみ」という絵本も購入。


 色々お話を伺い、お礼に持参していた広島銘菓?「川通り餅」を手渡してお暇しようしたらご主人で絵本の作者でもある小松則也さんが出先から戻られた。自著の絵本を買ってもらったことに感謝の言葉を述べられたが、自分が広島から来て震災や歴史津波を調べて回っていると言ったのでジャーナリストかルポライターだと思ったらしい。(笑)
 それはともかく、小松さんは震災がきっかけで絵本による防災の啓蒙や史実を風化させない役目が果たせないかとの思いから出版を行うようになったらしい(本業は小学校の教員となっていた)。前述の高台移転に尽力した村長の新沼武右衛門について訪ねると「カリスマ性があり村民から慕われていたから高台移転も成功したのではないか」と話していた。また、吉濱村が半農半漁だったことや居住地だけでなく墓地もまとめて高台移転させたことも成功した要因ではないかと語ってくれた。色々お話を伺っていると改めて在野の郷土史家の方々のリサーチ力には敬服せずにはいられない。別れ際に小松さんから「こちらは差し上げます」ともう1冊「もも色ゆうびんきょく」という絵本を頂いた。先日のビジターセンターの時もそうだったが、今回も「念ずれば通ず」というのは大げさかも知れないが何かタイミング的なものを感じずにはいられない出来事だった。

〈追補〉…ちょっと不思議な店名の由来は当家の屋号(カドヤ?)と「少ない、小さい」を意味する岩手の方言「べっか」を合わせたものらしい(筆者の推測です)。


              


 吉浜からは三陸道経由で陸前高田まで戻り、アバッセ高田で買い物や給油を済ませて次は気仙沼へ。市内の書店で震災関連の書籍を購入し、港では接岸している漁船などの写真撮影に興じる。気仙沼市場の側には船員さん向けの日用品や食品を扱う「酒のサイシン」さんがあり、こうしたお店はどのようなものを扱っているのか興味があった。店内を撮影するわけにはいかないので文章で伝わるかどうか分からないが、やはりゴム長や手袋、カッパや防寒具などが多く目につく。酒屋だからお酒の品揃えがハンパないのは当然だが、保存の効く食材や缶詰め、お菓子などジャンルも多岐に渡る。また、アジア系の船員も多いことからそっち系の食品も色々取り揃えていた。今回はタイ?のインスタントラーメンみたいなのを買ってみたが実食レポートはまた改めて取り上げたい。
 気仙沼のクリームサンドは季節限定品も含めて5種類ほどあったが今回はピーナッツといちご、レモンクリームを買った。隣で買っていたおばちゃんが「ずいぶん高ぐなったもんだぁ。前はコレ120円くらいだったっちゃねー」とお嘆きだった(今は税込み198円)。


 今日は志津川の宿泊施設を予約していたのだが、チェックインにはまだ少し早かったのでさんさん商店街を徘徊した。今日は「311メモリアル」のホールで昭和54年に撮影された志津川の街並み写真が展示されていたので見学。自分は志津川とは縁も所縁もないが、そこには「懐かしい昭和の風景」が焼き付けられていた。昭和54年と言えば1979年だが、自分の感覚だと昭和40年代ではないかと思ってしまうレトロ感がある。受付にその写真集が販売されていたので購入したが、その街並みも防災対策庁舎や志津川駅のホームを残すだけである。

 骨組みだけになった庁舎は多くの雀たちがしきりに出入りしており、中で巣作りが行われているのだろうか。庁舎の保存には賛否あったが、今もこの場所を訪れる人がいることを思うとやはり保存は意義のあることだったと個人的には思っている(辛い思いをされているご遺族の方々の心中を思うと複雑な気分ではある)。

 陽も傾き始めたので防災対策庁舎で合掌し、宿泊施設がある入谷地区へ向かった。明日は現地行動の最終日、大川小学校から雄勝、女川経由で夕方までに仙台へレンタカーを返却して今回の行程は終了である(※仙台~広島間の移動が残っているが)。