〈広田町六ヶ浦地区〉

 広田半島を南東に進むと大野湾に面した六ヶ浦(むつがうら)地区がある。漁港を過ぎて里道のような道路を登って行くと脇に昭和8年の津波記念碑が建てられていた(マップA地点)。石碑は大陽地区と同じ角柱タイプで文面も同じものだった。

・地震があったら津浪の用心
・それ津浪機敏に高所へ  廣田村
・津浪と聞いたら欲捨て逃げろ
・低いところに住家を建てるな

 この石碑は昭和9年3月3日建之とあり、設置場所は過去の津浪到達地点と思われる。東日本大震災ではこの石碑の土台が20cmあまり冠水したがそれでも同地区は犠牲者を出すこともなく、条件反射で避難できたのはこの石碑の内容を覚えていたからだと地元の方は話している。
 なお、明治29年の三陸大津波で六ヶ浦は高地に漁船が打ち上げられたり土蔵の敷石が跡形もなく流されるなどの被害が記録されている。





 〈広田町長洞地区〉

 六ヶ浦から大野湾を挟んだ対岸の長洞(ながほら)地区にも同様の津波記念碑がある(マップB地点)。隣にある半鐘が印象的だが、月山団地にあった「地震の後潮が退いたら半鐘を打て」の文言を想起させる。この津波記念碑は東日本大震災で流出したが、地元の人により発見されて再びこの場所に戻されたとのこと(設置場所は昭和8年の津波到達地点)。
 廣田村は明治29年の大津波で500人以上が犠牲になったがこの惨事で得た教訓はその後も伝えられ、昭和8年の大津波では同地区の犠牲者が4人だったことがその証明と言えるのではないかと思う。また、昭和の大津波以降津波到達地点より高い場所への住宅移転が進み、東日本大震災では昭和の大津波よりもさらに7~8m高い津波に襲われたが迅速な避難が功を奏して地区住民の犠牲者はゼロだった。震災後は高台移転がさらに進み、東日本大震災クラスの津波では被災しない環境になった反面防災意識が希薄になっているのではないかとの懸念があり、関心の低下を防ぐ取り組みを模索中だという。


 〈明治29年の惨状〉
 廣田村は明治29年の大津波で多数の犠牲者を出しているが、前述の「風俗画報・大海嘯被害録」に同村の記事がいくつか掲載されている。その中にある「一網五十余人」という痛ましい記事と挿絵は東日本大震災と何ら変わらない惨状だったことを思い知らされる(※ただしどの地区であったのかについては詳細不明)。

 「同村にては海中の死屍を捜索するが為、漁網を卸して曳きしに網に罹りて来し者五十余人、余りに重くして曳き上ぐること能はず漸(ようや)く半分づつに分かちて陸に上げたりと(※不明者の捜索のため海中に網を投じて曳いたところ五十余名の遺体があり、あまりの重さに曳き上げることができなかったので二度に分けて収容した)」

↑廣田村の海中漁網を卸して五十余人の死体を揚るの図