気仙沼市唐桑町湊地区

 気仙沼市内を過ぎて45号線を陸前高田方面に進むと陸前高田市との境界付近、唐桑町湊地区に昭和8年の津波記念碑が移設されている。正面は「昭和8年3月3日大震嘯災記念」「地震があったら津波の用心」とあり、揮毫は南三陸町戸倉と同じ四竃仁邇となっていた。裏側には朝日新聞の義援金による建立や被害状況などが記されており、それによると唐桑村の同地区は犠牲者は5名、流出家屋16戸となっている。当時の被害記録には溺死した馬の頭数も記されているケースがあり、馬は暮らしの中で重要な役割を果たしていたことが伺える。


 元々は唐桑村によって昭和9年頃現在の国道付近に設置されていたが、国道工事などに伴い賀茂神社内に移転した。その際石碑が割れてしまい、鉄枠で補修されていたが東日本大震災で再び倒壊、湊地区の公民館付近に移設されたが震災の被害の象徴として敢えてそのままにしているという。岩手県は明治の津波到達地点付近に石碑を設置することが多かったが宮城県はそうした点を重視していなかったため東日本大震災で流出したり破損することが少なくなかったようである。


 陸前高田市気仙町月山団地 
 気仙沼市の境を越えて陸前高田市に入ると長部(おさべ)インターがあり、その先に震災後造成された月山団地内に昭和8年の津波記念碑がある。海の近くにあった長部部落は昭和8年の大津波で53戸中残ったのはわずか5戸、気仙町全体では32名が犠牲になるという惨状であった。以前は長部漁港の近くに設置されていたが付近は東日本大震災で浸水しており、月山団地が造成された際公民館横に据えられた。設置は昭和9年3月、当時の気仙町長河野俊覚氏の書による。

 位置関係はこちらを参照。この石碑は宮城県のものと違い、教訓が箇条書きになっているのが興味深い。

・不意の津浪に不断の用意
・地震の後どんと鳴ったら津浪と思へ
・地震の後潮が退いたら警鐘を打て
・大津浪三四十年後に又来る
・津浪来たなら直ぐ逃げろ
・金品(もの)より生命(いのち)

とかなり具体的なことが書かれている。明治29年の三陸大津波では沖合いで雷鳴や軍艦の砲撃を思わせる轟音を聞いたとの証言が多数あり、このことが「どんと鳴ったら~」の根拠になっていると思われる。この石碑は過去の津波から得た教訓を列挙しているが、その前触れとして「今までにない異常な引き潮」が津波の前に必ずあるものではないことが東日本大震災でも報告されている。また、津波が3~40年周期で来るとは限らないし、チリ地震津波のように地震を感じなくても津波はやって来る。過去の事例ばかりに捕らわれてはいけないが、石碑の文言は教訓として覚えておくべき事例ではある。「金品より生命」はまさにその通りで、高台に避難したのにお金や貴重品を取りに戻って犠牲になった事例は枚挙に暇がなく、実際にそうした状況になるとつい「まだ大丈夫だろう」という油断が出てしまうのかもしれない。裏側には地震発生の状況や被害の様子、朝日新聞の義援金による建之の旨が記されている(※ただし石碑は斜面際に移設されているため裏側を見る時は転落などに注意)。
 この津波記念碑移設の中心になった気仙町湊地区の菅野泰夫さんは幼少の頃からこの碑文を読んでおり、そのおかげで東日本大震災でも素早く避難行動に移すことができたという。