〈歌津 田の浦地区〉
先ほどの中山地区から県道225号線を少し北へ進むと田の浦地区に漁港があり、防潮堤手前の八雲神社入口に昭和8年の津波記念碑がある。草や灌木で若干見つけにくいが例の井内石の石碑が鳥居脇の斜面に佇んでおり、隣には東日本大震災における津波到達地点を示す石柱があった。
↑場所はこちらになるが、Googleマップの位置とはズレていたため口コミ写真から場所を割り出した。
正面上側は「大震嘯記念碑」、縦書きで「地震があっら津浪の用心 津浪と聞いたら早く高地へ」となっている。両脇には地震発生時刻や津浪到達時刻、被害状況が記されていた。それによると田の浦地区は死者28名行方不明者1名、負傷者が23名となっている。家屋の流出26戸、漁船は39艘が流出など田の浦地区だけでもかなりの被害が出ていることが分かる。裏側は「此ノ記念碑ハ東京朝日新聞社へ寄託ノ義援金~」の旨が記載。
なお、昭和8年の津波記念碑は様々なパターンがあるか、宮城県は必ず「地震があったら津波の用心」の文言を入れるよう指示があったらしい。
こうして見ると津波記念碑は神社のそばに設置されているケースが多々あり、神社と津波の因果関係を想起せずにはいられない。田の浦地区は津波避難場所が他にあったようだが、震災当日この八雲神社に避難して難を逃れた地元住民がいたという。
〈気仙沼市波路上〉
国道45号線から階上(はしかみ)駅付近で震災遺構になった旧向洋高校方面に進み、海に向かって行くと突き当たりの場所は明戸霊苑になっている。その一角に昭和8年の津波記念碑があった。以前は目の前に海が見えたのだが現在は防潮堤が建設されたため海は全く見えない。
正面の文字「昭和8年3月3日 大震災記念」「地震があったら津波の用心」は山元町の石碑とほぼ同じ形式である。両脇は明治29年と昭和8年の被害が記されており、明治29年は死者442名と甚大な被害を受けているが昭和8年では死者1名と激減している。これは明治の三陸大津波以降沿岸部にあった集落を集団移転させた結果であり、そのことも碑文に書かれている。しかし東日本大震災では向洋高校の屋上付近まで津波が遡上し、この付近は再び甚大な被害を受けた。裏側も「朝日新聞社へ寄託義金二十余万円ヲ~」とある。同碑は書家の伊達松園による筆で建立は1935(昭和10)年頃とのこと。
波路上(はじかみ)の津波記念碑は当初集団移転先の地福寺にあったが明戸霊苑が整備された時に移設されたという。しかし東日本大震災では津波の直撃を受けて倒壊し、二基あった津波記念碑のうち1基は行方不明になったとのこと。現存するこの石碑もかなり傷痕があり、津波で流された時のものと思われる。震災後明戸霊苑は流された墓碑などを整理して震災前のようになっているが、墓碑の文字を何気なく見ていると東日本大震災の他に明治29年の津波で犠牲になったと思われる人の日付もあった。また、隣の区画には海難事故などで犠牲になった人たちを供養するための塔もある。