今回は山元町から石巻間にある津波記念碑が事前に特定できなかったので次にチェックしたのは南三陸町となった。場所のリサーチはGoogleマップと書籍の情報のみだったのでかなりの見落としがあり、ネットの津波記念碑データなどを活用すれば良かったのだが後の祭りである。どちらにせよ今回の行程で全て調べて回るのは不可能だから今後も課題として続けて行こうと思う。


 〈南三陸町戸倉 藤浜〉
 北上川の河口を過ぎて南三陸町方面に向かうと景勝地「神割崎」があり、その先の戸倉地区藤浜に保呂羽神社と並んで昭和8年の津波記念碑がある。以前はこちらが主要道だったが現在の国道398号線はこの上に変更されたため旧道になり、地元の住民以外通る人はいないようだ。正面には「昭和八年三月三日大震嘯災記念」 「地震があったら津波の用心」と刻まれている。刻字は陸前稲井 阿部勇之〇←?とあるのでこれも石巻市の石材業者によって製作されたのだろう。 なお、揮毫者の四竃仁邇(しかま じんじ・1863~1941)とは仙台出身の教育家、音楽家で正六位勲六等というのはかなり功績のある人物と思われる。


↑石碑の場所はこちら。戸倉は地形の関係で津波の直撃を受けなかったこともあり、犠牲者は1名であったが歌津の馬場、中山地区(後述)などは甚大な被害を受け多数の犠牲者を出している。


 裏側には「此の記念碑は朝日新聞社へ寄託の義金二十余万円を罹災村への分配した残額をもって建之したものです」と例の文言が記されており、地震発生時刻や被害状況などの記載はなかった。設置は昭和9年頃で、聞き取り調査を行った人によると当初からこの位置(津波到達地点?)にあり移動はしていないとのこと。


 〈南三陸町歌津 馬場、中山〉
 中山地区の五十鈴神社前には明治29年の津波記念碑があり、東日本大震災の津波で倒されたが現在は新たな台座に据え直されている。逆光で分かりにくいが正面は漢文調で記されており、自分の学習レベルでは大まかな被害状況などが記されているくらいしか読み取れなかった。この碑は大津波から4年後に地元の人たちが犠牲者を供養するため建之し、高僧らによってかなり大規模な法要が行われたらしい。当時は高僧によって記された漢語は最高の供養とされたためこのような碑文となったと思われるが、その反面難読なために一般の人には分かりにくくなっている。民族学者であった柳田國男は大正9年頃三陸各地を巡っているが、そうした津波記念碑の難読さを指してか著者「雪国の春」の中で「恨み綿々などと書いた碑文も漢語で、もはやその前に立つ人もいない」と津波記念碑(供養碑)が難解さ故に顧みられなくなった様子を書いている。昭和8年の津波記念碑が簡潔で分かりやすくなっているのはこうしたことが反映されたのかもしれない。

↑明治29年震嘯記念碑の場所


↑後面には設立に関わった人などが刻まれている。


 〈歌津村の惨状〉
明治29年の大津波で歌津村(当時)は多くの犠牲者を出しているが、前述の「風俗画報 大海嘯被害録」から同村の様子が記載されていたので抜粋しておく。

 〈八十歳の老婆路傍に徨ふ〉
 「歌津近傍に八十余歳の老婆只一人生き残りて子をも孫をも家をも親類をも悉(ことごと)く失ひたるものあり 行先とてもあらざれば襤縷(らんる:継ぎはぎだらけの古着)を纏いたる儘風呂敷包らしきものを負ひてとぼとぼと彷徨ひ行く風情卒塔婆小町の昔も忍ばれて見る人哀れを催ほさざるものなかりしぞと」
 ※この老婆は津波で家だけでなく身内を全て失い、着の身着のまま行く宛もなく歩く様は見る人の哀れを喚起せずにはいられなかった。
↑歌津村の老婆襤縷を纏ひ途上に彷徨するの図

〈婚礼の夜に婿のみ助かる〉
「歌津村字伊里前の某は当夜嫁を迎へ一家親類寄集ひて今しも三三九度の真っ最中にドッと押し寄せたる海嘯の為に花嫁を始め一家来客悉く死亡して花婿一人のみ助かりたる(がその)甲斐も無く今は全く発狂して只ゲラゲラと笑ひ居るといふ」
 ※この日は旧暦だと端午の節句に当たるため各地で祝いの宴が催されていた。しかし婚礼という幸せの時を過ごしていた人たちが突如襲来した津波に巻き込まれ、身内全てを失うという不幸のどん底に突き落とされた花婿の心中は察するに余りある。大海嘯被害録には理解の範囲を超えた突然の惨状に精神を病んだり記憶を失った被災者の記述があり、こうした悲劇は明治29年でも東日本大震災と何ら変わらない出来事だったことを再認識させられる。自分は歌津や伊里前を何度か訪れているだけに明治29年の悲劇も遠い昔の出来事ではなく「この地で起きた」リアルな災害として受け止めるようになった。